「百聞は一見に如かず」という言葉は、生物の同定(名前を決めること)にはとくに重要である。言葉でどう説明されても、見当がつかないことがけっこう多い。たとえば「花は白色でした」と言われた花も、実物は、蘭の唇弁のような「目立つ花弁だけが白かった」ということもある。写真のなかった時代には、絵描きの集中力やデッサン力だけが頼りで、慣れてくればその絵描きがどれだけの再現力を持っているか、すぐにわかるものである。

 今回、『若冲の花』発行に当たって、京都の信行寺に伝わる伊藤若冲の167枚の植物天井画の再同定をお引き受けした。「生物の画家」と呼ばれるだけあって、その再現力や感性に基づくデフォルメ方法には感嘆した。ただ、絵そのものは絵具の退色や剥落も進んでおり、中には花弁や花形すらはっきりしないものもあった。

 これらの絵には、すでに先人によってあらかた植物名が付けられているのだが、その精度には粗密があり、なかでも蘭の名前は信じられないほど粗雑なものだった。また、萩・躑躅(つつじ)・百合・罌粟(けし)などといった「総称」で済まされているものも、けっこう多かった。植物は、種類によって観賞用だったり薬用だったりする。総称では、若冲がその絵を描いた理由に迫ることができない。そのため、できる限り「種名(しゅめい)」にこだわった。

 また、とくに園芸植物では、種(しゅ)以下の区別である品種が重要なこともある。たとえば「椿」は、室町時代から普通に栽培されており、ことさらにコメントするようなものではない。しかしそれを詳しく見てみると、現在「肥後椿(ひごつばき)」として知られる古典的な椿の品種であった。注目すべきなのは、「肥後椿」の登場は、1600年代に描かれた疑問の残るもの(椿と雪椿の雑種とされるユキバタツバキだろう)を除けば、若冲のこの絵が最古のものと推定されることである。これまでの最古の記録は、彼の死後30年ばかり経った1829年の図譜で、そこにはすでに30品種ほどが収録されている。樹木の品種改良で、これほどの多様な品種と苗木を得るには最低数十年程度かかるから、若冲の絵は、出回り始めた肥後椿を描いた可能性が高い。当時すでに園芸上の新品種は、現在の株と同じように、投機の対象であった。肥後椿の改良も、平和な社会が続いて「食うに困った」肥後藩の武士階級によって行われていたものである。図譜の公表は、新品種の値段を吊り上げて売り抜けるためのもので、売り手側には相当数の苗木のストックがあったことを意味する。

 つまり、再同定にあたっては、名前を付け替えなければならない天井画の枚数は、全167枚の4分の1近く、40枚に及んだ。今回の改名で重要と思われるものを挙げてみよう。

 ボタンゲシ(牡丹芥子、牡丹罌粟)。「芥子」という総称で片づけられていた花で、八重咲と一重がある。若冲が描いているのは一重で、アヘンをとるために栽培されていたものと同じ花だった。アヘンは麻酔・鎮痛に使われた実用品であった。現在の日本では、原則として栽培禁止である。

 タンドク(檀特)。「ぎぼうし」と名づけられていたもの。現在のカンナの原種にあたるが、花色は鮮やかながら花弁が小さく、現在ではまったく栽培されていない。若冲の時代には、新しく渡来した斬新な切り花だったと思われる。

 センノウゲ(仙翁花)。「がんぴ」と名づけられていた。京で品種改良が盛んに行われた「仙翁(せんのう)」の仲間で、天井画ではこれと松本仙翁の2種が描かれている。花弁に深い切れ込みがあり、草勢が強く高さ1メートルに達する。盆花として尊重されたが、三倍体のため種子ができず、一時絶種したと伝えられた。

 フジマメ(藤豆)。「ひら豆」と名づけられていたもの。関西では本種を隠元豆(いんげんまめ)、本来の隠元豆を三度豆(さんどまめ)と呼ぶ地方もある。花は紅紫色系で、観賞的にもよい。若冲は、野菜のような実用品でも、区別なく描いていたことがわかる。

 若冲が活躍した1700年代、江戸中期は、現在「日本的伝統」と称されるものの骨格が形作られた重要な時期にあたる。ちなみに、江戸前寿司の代表とされる「握り早寿司」が登場するのは1800年代になってからだが、すでに1700年代前半の享保年間には、「鱒の早寿司」が徳川吉宗公に献上されている。それまでの乳酸発酵による「馴れ寿司」は、これ以降、まったく別なものになっていく。

 園芸においても、作出された品種には気品が尊重される一方、流通や投機など、現在普通に見られるシステムの骨格が形作られた時期である。若冲の死直後の文化・文政期に至って、園芸文化は「変化咲き朝顔」に代表される爛熟、ひいては一般庶民とは乖離した退廃の時期を迎えることになるが、若冲はそれを知らないまま没したことになる。