拙著に収められた50本のコラムは、ビートルズの行動や関係する出来事を日付単位で綴ったものだ。出典は朝日新聞デジタルサイト「どらく」に足かけ7年更新を続けた同名の連載コラム。曲作りを中心テーマにした49本を選び、新たにジョージの誕生日をお題にした書き下ろし一本を加えた。

 偶然、ポール・マッカートニーの4度目の来日公演や、ビートルズの最新アルバム「オン・エア~ライブ・アット・ザ・BBC Vol.2」の発売と本書の刊行時期が重なり、個人的には感慨深い。関連した内容としては、1962年3月7日のコラム「スーツ姿を初披露」で、彼らがBBCのラジオ番組に初めて出演した時の公開録音の模様を取り上げている。また、1963年5月24日のコラム「前代未聞の大抜擢」では、ラジオ番組を宣伝の場だけでなく、演奏技術向上の場として活用していたことに触れた。

 ネタの卵のほとんどは、筆者が熱心にビートルズを聴いていた中高生の頃、ライナーノーツや雑誌などから得た知識が基になっている。

 例えば、ビートルズ最大のヒット曲「ヘイ・ジュード」は、両親が離婚することになった、ジョンの息子ジュリアンを励ますためにポールが書いた曲として知られている。ポールがジュリアンと母が住む家へ向かう車中で構想を練ったとされ、「ヘイ・ジュリアン」と口ずさんでいるうち、何かの拍子で「ヘイ・ジュード」に変わったとされている。

 その後、筆者はジョンの元妻シンシアによる自伝を読み、ポールは一本のバラを携えて母子に会いに行った事実を知った。彼の優しさが嬉しかったと書いてあった。ドキュメンタリー・ビデオ「ザ・ビートルズ・アンソロジー」を紹介するテレビ番組で、ポールはこの曲の詞を初めてジョンに見せた時のことを「思い出すといつもセンチな気分になる」と語っていた。生前のジョンは「この曲は僕に向かって書かれた曲だ」と雑誌のインタビューに答えていた。

 こうした断片的な情報の蓄積が「いつの日付で何を書くか」のヒントになった。「ヘイ・ジュード」のレコーディングを開始した「1968年7月29日」を日付に選び、事実関係を調べて原稿として構成していった。

 驚異的なレコード・セールスで外貨獲得に貢献したビートルズは、1965年10月26日、英国女王からMBE勲章を授かる。だが4年後、ジョンは勲章を女王に返還した。調べてみると、彼は勲章を授かることに抵抗があったが、王室に対し非礼があればビートルズとはいえ許されないことも理解していた。返還は、いわば彼のけじめの儀式だった。

 リンゴ・スターの誕生日は1940年7月7日。彼は4人の中では最も貧しい地区で育った。幼少の頃から病弱で入退院を繰り返したため、学校は欠席がちとなり満足に文字も書けなかったと告白している。社会人になっても彼は職を転々として苦労を重ねる。無職になれば、いつ徴兵されるかわからない不安を抱えてもいたという。1960年まで徴兵制度があった英国で、若者は兵役という逃れられない束縛を感じて生きていた。

 1963年1月11日のコラム「ヒットの予感」では、ビートルズの成功を手助けするプロデューサーとの出会いを書いた。絶対音感を持つ長身の英国紳士ジョージ・マーティン。意外にも彼は、ジョンとポールの才能を当初は低くみていた。だが、不思議な魅力を持つ青年たちの素顔を知りたくなり、彼らの本拠地であるライブハウスを密かに訪れる。そうしたぎこちない関係も、最年少メンバーのジョージの「あんたのネクタイが気に入らない」というジョークで一気に打ち解けることになる。

 日本の英語教科書に初めてビートルズが登場したのは、三省堂の1978年度用中学教科書『ニュー・クラウン』だった。そこには、部屋でビートルズのレコードを聴く息子とレコードを止めさせようとする父親との対立する会話が1ページにわたって載せられている。ビートルズとはいえ、日本ではまだ世代を超えて評価される存在ではなかった。

 1965年6月14日のコラム「名曲は落とし物?」では、そんな時代にロック音楽を聴きだした筆者にとって、「イエスタデイ」は「ロック嫌いの大人を完膚無きまでに黙らせるキラー光線だった」と書いた。

 しかし、いまやビートルズを「不良」と呼ぶ大人はいなくなった。彼らの現役時代を知るリアル世代は、本書で当時の自分自身を思い出していただけるかもしれない。最近、ビートルズの曲を好きになったという若い世代は、成功を掴もうと悩む等身大の彼らを身近に感じるかもしれない。ビートルズは世代を超えて楽しめる存在になっている。