日本の中世社会において、宗教が担っていた社会的役割の重さは、現代に生きる我々には想像しがたいものがある。1960年代に中世史家黒田俊雄が唱えた権門体制論以降、中世の国家は公家・武家・寺社の諸勢力が相互補完しつつ、分担することによって成り立っていたと理解されるようになった。このように3本の鼎の足の一つとしての宗教界を位置付けると、その重要性は明確になる。

 ただしここで国家の機構の一員としての宗教界(寺社)の役割は、実際には政治的役割にとどまるものではない。むしろ寺社の役割が中世社会全般の文化的側面に及んでいることに注目するならば、寺社とは、幅広い文化の集積とその普及の役割を持った機構、つまり人間の知的活動の中核であったと読み替えることができる。寺社を構成していた僧侶や神職は、単に釈迦や神の教えを学び、実践するというだけの務めに従事していたわけではないからである。仏教を核としつつも、多面的な学問体系、知の体系を集約していたのが中世の寺社であった。仏像を作り仏画を描く造形の技術、伽藍を造営する土木・建築技術、医・薬に関わる知識、法会を実施するための声明や楽器などの音楽の理論と実技、説法のための言説の技、などなど、それらすべてが宗教活動に不可欠なものであった。例えば、戒律復興の中心人物であった叡尊やその配下の僧侶達は、街道・港湾の修築に貢献し、傷病者や社会的弱者の救済に当たり、荒廃した寺院を復興することができた。安居院澄憲に代表される幾人もの僧が説法・唱導の名手として名を馳せた。これらはいずれも中世寺院に多様で広汎な知の蓄積があったからこそ可能となった事実である。

 このような多面的役割を持った寺社は、それ故、多様な職能を持った人材の集合体として存在していた。仏法の修学に専念する僧だけではなく、寺院経営に専念する半僧半俗の者がおり、同じ修学僧にしても、あるいは密教の修行をし、あるいは法相や華厳を学ぶなど、個々の僧や僧団により専門とする領域は異なっていた。

 以上のような多面的な性格を持つ中世寺院について、私が講義で説明する際、現在の大学に喩えて説明する事にしている。学問・教育を専らとする教員と学生(学侶)、財務や教務の事務を専らとする事務職員(堂衆や公人)の双方がいて大学は運営してゆける。教員や学生は、幅広い教養を基盤としつつも個々の専門分野が異なり、実験に専心する研究者(修行僧)、文献に埋没する学徒(修学の僧)、弁説さわやかにマスコミにも登場する碩学(説法僧)がいる。こうした大学の多様な人的資源の下で、社会を動かす人材を産み出すことができる。それはまさに中世の寺社の姿に他ならない。

 ところで、寺社のあり方は中世を通じて不変であったわけではない。13世紀以降の中世後期には、特にその文化的専門性が幅広く社会の中に浸透してゆくことによって、宗教界自体が変質してゆくことになる。

 以上のような寺社の特質とその時代的変化は、特に中世後期については必ずしも具体的に解明されているとは言い難い。近年、中世後半の寺社のあり方についての研究が進んできてはいるが、一つの寺院を素材にして、その多面的な様相を把握することは、中世後半の社会の理解にとっては欠かす事のできない作業である。

 この度上梓された中川委紀子著『根来寺を解く』は、新義真言宗の本山である根来寺を取りあげ、右に述べたような寺社の持つ多面的な機能とその時代的変容過程を仔細に追求し、解き明かしている。ここで重要な事は、どのような素材(根拠史料)に基づいて、何が解明できるのか、が明快に示されている事である。さらにその根拠史料は、文書や記録などの文字史料だけではなく、美術作品、建築物、絵画史料、考古資料など、包括的である。手掛かりとする史料の性格によって、解明できる史実も異なってくる。とりわけ文字史料に関しては、近年研究の進む聖教(しょうぎょう)(僧侶が修学・伝法などのために作成した史料群)が巧みに活用されている。

 先に中世寺院を大学に喩えると記したが、本書には、16世紀に来日したザビエルやフロイスが、根来寺を当時の大学としてイエズス会に報告していたとの記述がある。まさに現代の我々が便宜的に大学と喩える認識は、実は中世末のヨーロッパの人からみても齟齬のない認識であった。『根来寺を解く』を読み進めると、中世日本の大学の形成と変容が手に取るように明らかになる。質の高い内容が平易に語られているという意味では、歴史好きの、あるいは仏教美術愛好の多くの読者にも示唆する事の多い書物であると確信した。本書の価値は、まさにこの拙文の表題に集約できると考えている。