左から、細川護熙氏、羽田孜氏、村山富市氏
左から、細川護熙氏、羽田孜氏、村山富市氏

 首相にズバッと切り込んできたジャーナリスト、田原総一朗氏の「通信簿」は今回、細川護熙、羽田孜、村山富市の3氏。自民一党支配が崩れ、政治が疾走した約2年半。三者三様のリーダーと思いきや、共通点があった。(一部敬称略)

【田原氏による細川氏、羽田氏、村山氏の採点表はこちら】

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田原総一朗氏
田原総一朗氏

 野党が出した内閣不信任案に、小沢一郎や羽田孜ら自民党の一部が賛成し、宮沢喜一内閣は終わった。そして1993年8月、日本新党代表だった細川護熙が首相に就き、非自民、非共産の8党派からなる連立政権が発足した。

 これは小沢が主導し、公明党の市川雄一書記長たちと協力してできた政権。小沢と市川の盟友関係は“一・一ライン”とも言われた。この内閣をつくった最大の目的は「選挙制度改正」。つまり、宮沢がするつもりだった衆院での小選挙区制の導入ね。

 ところが、細川は政権運営に苦労する。彼は赤字国債に頼らず、財源を消費税の増税に求めたが、社会党などが大反対。メディアから力がない総理だとレッテルを貼られるなか、佐川急便グループからの借入金処理をめぐる疑惑が浮上する。やがて細川が辞任し、内閣は総辞職した。

 その当時、小沢に「あなたがいるのに何で細川が辞任してしまうのか。何ともだらしない」とただした。そしたら小沢は「僕に相談してくれたら佐川問題の対応は何とでもできた。でも彼は一切、相談しない。僕は佐川問題を全く知らなかった」と言っていた。

 もともと宮沢内閣の不信任案騒動のとき、小沢から「次の総理は君」と言われていた羽田が細川の後に首相になる。でもこれ、少数与党内閣。約2カ月で何もできずに瓦解した。

 そして自民、社会党、新党さきがけの連立政権へと移る。首相になったのが、社会党委員長だった村山富市。もともと自民党は、小沢の力を抑え込むため、何としても自前で内閣をつくろうとした。それができず、社会党と組んだ。

 ところが当初、「村山内閣」に村山本人がいやがった。そんなことをしたら、党が破綻(はたん)してしまうからだった。社会党は当時、日米同盟反対、自衛隊反対などを掲げていた。

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