昭和8(1933)年、延長25回に及ぶ伝説の準決勝で敗退した明石中。大投手の楠本保(14~43)を温存、2番手の中田武雄(15~43)が登板したのはなぜだったのか。ともに慶応大へ進み、楠本の妻が嫉妬したほど仲が良かった二人。戦地での最期も、連れ立つかのようだった。

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■昭和8年 明石中 主戦不在の延長25回

 明石の楠本か、楠本の明石か──そう言わしめた、チームの大黒柱だった。明石中学投手・楠本保。昭和5(1930)年から8(33)年にかけ、春夏合わせて6回甲子園に出場、球場を沸かせた選手である。

 とびきり速い、しかもズシンと重い球を投げた。明石中の捕手・福島安治は、楠本の球を受けるようになってミットをはめた左手が一回り大きくなったという。楠本保のご子息・楠本保彦さん(72)も、かつて福島氏に直接会った折、「この親指がもう曲がらんのや」と左手を見せられた。

「あまりの豪速球に、球を受けると体ごと後ろに吹っ飛ぶほどの衝撃だったそうです。左手の甲まで内出血して真っ青になった、と」

 速球派投手でもただ速いだけならば攻略の糸口はある。食らいついて当てにいけば、球が速い分、打球に飛距離が出るのだ。が、楠本の球は、ミートしても飛ばない。対戦相手はみな、その名を聞くと顔を曇らせた。「自分たちの野球」をさせてもらえないからだ。

 フォームも独特だった。センター方向に一旦体を回し、サイドスロー気味に腕を振り下ろす。打者に背中を見せるため、どこから球が出てくるかわからない。野茂英雄のトルネード投法によく似ていたという。

 
 この堂々たる投球に、一遍で魅せられた少女がいた。のちに楠本の妻となる美代子さんだ。親戚に誘われ出掛けた甲子園で偶然目にしたその雄姿が、彼女の内に鮮烈な印象を残したのだ。ただ楠本は、いかにも女子受けしそうな甘いマスクではない。むしろ、どこか野武士を思わせる風貌である。

「おふくろは純粋に、親父の野球をする姿に惹かれたようなんです」(保彦さん)

 その証拠に美代子さんは、以降スコアブック片手に、足繁く明石中の試合に通うようになる。単にルックスでワーキャー言う女子ファンと違い、野球を理解し、選手を野球センスで判じるあたり、当時14歳だった彼女の本質を見抜く目の確かさと賢明さを感じさせる。

 楠本保は、兵庫の魚住という漁村に生まれた。魚住第二小学校野球部時代から、鉄腕ゆえ「テッちゃん」とあだ名されるほど豪速球で知られていた。家は貧しく、比較的裕福な子供たちが通う中学に行ける環境にはなかったが、成績が群を抜いていたため教師からも後押しされ、昭和4(29)年、明石中に進学。野球部に入るや頭角を現し、翌5年の第7回選抜大会では2年生にして投手で4番として活躍。ほぼ無名だった明石中の存在を広く知らしめた。

 甲陽中はじめ強豪揃いの兵庫は、地方大会で勝ち上がること自体が至難の業だった。夏の大会は惜しいところで出場を逃してきた明石中だが、昭和7(32)年、甲陽中を3対0で破り、ついに念願の出場を果たす。

 
 ちなみにこの年の選抜で、楠本は5試合を投げ、49奪三振という驚異的な記録を打ち立てている。広陵中と京都師範に対しては、全員奪三振を記録。選抜大会初の快挙だった。結果は準優勝。4年生になり体ができてきたこともあろうが、楠本の剛腕は全国屈指の域に達していたのである。

■昭和8年の選抜 楠本は52奪三振

 明石中はもうひとり、中田武雄という左腕を抱えていた。楠本の1年後輩。力でねじ伏せる楠本に対し、中田はコースを丁寧について打たせて取るタイプ。泰然自若とした楠本に比して、中田は物腰柔らかで笑顔を絶やさない。まるで正反対のふたりだが、不思議と馬が合った。移動中も練習も行動を共にする。バッテリーならばともかく、ライバル関係にある投手同士がここまで仲がいいのは珍しい。

「中田さんは気配りの人と聞きますから、親父も心安かったんでしょう。おふくろがよく、『私が嫉妬するほど仲が良かった』と笑い話をしてました」(保彦さん)

 しかし夏の大会、中田はセンターとしての出場に止まり、準決勝で松山商に敗れるまでの4試合すべてを楠本が投げている。初戦の北海中戦ではノーヒット・ノーランを達成、松山商戦でも17奪三振と好投。にもかかわらず、優勝には届かない。打線の援護がなく、味方のエラーに足を引っ張られたことが原因だった。

 翌8年の第10回選抜でも、決勝で岐阜商に0対1で惜敗。ちなみに、このときの岐阜商投手は前々回で紹介した松井栄造である。

 
 この選抜でも楠本自身は初戦で平安中を全員三振に打ち取るなど、5試合52奪三振。それだけに味方打線が1点でも2点でもとってくれれば、という苛立ちがあったろう。だが楠本は、仲間を責めはしなかった。無口な男だが、誰にでも優しく、野球を離れると冗談を言ってみなを笑わせることもあった。後輩にも威張らず、だから中田も親しく付き合えたのだろう。

 余談ながら、中学でも成績は常にトップクラス。きつい練習のあと、魚住まで帰る電車の中や寄宿舎に住む友人の部屋で寸暇を惜しんで勉強したという。

 楠本というおおらかで頑健な大黒柱のもと、選手達も伸び伸びと技を高めていけたのではないか。

 昭和8年夏、明石中は再び、夏の甲子園に登場する。力を入れた打撃練習が功を奏し、初戦から大量得点をあげ、投手も楠本、中田の二枚看板で臨んだ。とはいえ中田の登板は、3回戦の7回以降のみ。今年こそ悲願の優勝を、と臨んだ大会だけに、絶対的エース・楠本の先発は不可避だった。

 ところが、だ。準決勝での先発は中田。対する中京商は優勝候補の筆頭である。楠本は2回戦の水戸商戦でノーヒット・ノーランを達成したほどで、調子は悪くない。順当に行けばここは楠本のはずだが、先発回避にはこれまで二つの説があった。ひとつには肩を痛めて制球がいまひとつだった、ということ。もうひとつには、中京商は先発・楠本と読んでくるだろうから、裏をかいて中田を選択したという説。そしてこの試合が、高校野球史上に残るあの延長25回戦となるのである。

「戦地に散った球児たち(6)」へつづく

木内昇(きうち・のぼり)
直木賞作家。1967年生まれ。野球通で、昨夏は甲子園観戦記を本誌に連載。代表作に『漂砂のうたう』『櫛挽道守』

週刊朝日  2015年8月14日号