黒田家第16代当主の黒田長高(ながたか)氏は、関ヶ原の戦いで活躍した黒田官兵衛の孫が起こした騒動をこう語る。

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 わが家の先祖は黒田官兵衛。秀吉を天下人にした軍師です。官兵衛は秀吉から豊前(ぶぜん)の中津藩(現在の大分県中津市)12万石を、息子の長政は関ケ原の戦いでの大活躍で、家康から52万石の福岡藩を与えられました。

 今年は、官兵衛が主人公の大河ドラマ「軍師官兵衛」が放送されています。これまで映画やドラマで、官兵衛は謀略家で悪だくみばかりしているような人物として描かれてばかり。そりゃあ、子孫としては気持ちの良いものではありませんよ。その点、「軍師官兵衛」の岡田准一さんは、これまでの悪いイメージをだいぶ変えてくれたでしょう。

「軍師官兵衛」は、いよいよ大詰め、天下分け目の関ケ原の戦いになります。官兵衛は関ケ原に行かず、九州を制圧しようと兵を動かします。このことで、官兵衛は天下を狙っていたとも言われますが、私は少し疑問に思っています。もともとなるべく血を流さないようにしていた人ですからね。

 ただし、例外はあります。秀吉の命令で九州に入り宇留津(うるづ)城を攻め落としたとき、城に残っていた兵士以外の男女を残らず浜で磔(はりつけ)にしました。また、長政は豊前で抵抗する土豪の宇都宮鎮房(しげふさ)をだまし討ちで殺し、鎮房の娘・鶴姫まで磔にしたそうです。官兵衛父子らしからぬ残酷さですが、秀吉に抵抗勢力の鎮圧を求められていましたから、こうでもしないと黒田家が危うくなると考えてのことだと思います。「軍師官兵衛」では、ここの描写はかなりソフトでしたね。

 
 長政は、合戦で先頭に立って戦うような人でしたが、知略もなかなかのものでした。関ケ原の戦いでは、小早川秀秋と吉川(きっかわ)広家を寝返らせて東軍に勝利をもたらし、家康から感謝状をもらっています。

 ところが官兵衛の孫・忠之には問題があったようです。生まれながら大名の若様という苦労知らずのせいか、幼いころからわがままで短気。長政は不安に思い、長男の忠之ではなく、三男の長興(ながおき)にあとを継がせたかったようです。実際、長政は忠之に、百姓か商人か僧侶のいずれかになるよう伝えてもいます。忠之が川で泳いでいたとき、足を引っ張って殺してしまおうとした家臣もいたらしい。でも結局、長政のあとは忠之が継ぎました。そして、福岡藩のお家の一大事「黒田騒動」がおこります。

 藩主となった忠之は、軍船を建造したり、新規で足軽を雇い入れたりと、幕府が禁止していたことを行いました。藩が取りつぶされることを恐れた家老の栗山大膳(だいぜん)は、「藩主の忠之に反逆の企てあり」と幕府に訴え出ます。幕府の裁定は、「忠之は領地没収。ただし、父・長政の戦功により、特別に旧領を与える」というものでした。長政の関ケ原での働きのおかげで、実質おとがめなしとなったのです。藩のためとはいえ主君を訴えた大膳は、盛岡藩に預けられました。

 官兵衛が愛用していた兜(かぶと)は、現存する唯一のものが「もりおか歴史文化館」にあります。これは、官兵衛が長政の後見を頼んだ栗山善助にこの兜を与え、善助の子・大膳が盛岡に持って行き、のちに大膳の子孫が盛岡藩主の南部家に献上したからだそうです。

(構成 本誌・横山 健)

週刊朝日  2014年11月28日号