襲撃時はヒットマンたちを率い、宅見組長のいるホテル内の喫茶室に向かった。

「最初は私が先頭で宅見組長に向かっていきました。一人のヒットマンが遅れたので、『何やってる!』と怒鳴ったところ、(共犯の元組員)A(公判では実名。2006年病死)が先に発砲していました」

 その後、財津被告は東京へ逃走。間もなく、A元組員と合流して、各地を転々とした。

「中野会から、逃走資金として月100万円から300万円を受け取っていた。糖尿病の持病があるAが病院へ薬をもらいにいったところ、捕まりそうになった。それ以来、外出は極力控えました。相模原市のマンションに潜伏していたとき、Aの糖尿病が悪化した。食事がとれず、足が壊死(えし)してきた。毎日、栄養ドリンクを与え、足の包帯を取り換えましたが、06年の6月に死亡しました」と、逃亡生活の様子を語った財津被告。当時の心情を聞かれると、

「俺もいずれAのように誰にもみとられず死ぬのかと思うと、惨めだった」

 A元組員が死亡した後も、関係者に潜伏先を確保させるなどして逃亡を続けた財津被告。逮捕時の心境を尋ねられると、複雑な胸中を吐露した。

「Aが亡くなり、自分ひとりになって、報復で命を狙われ、いつ殺されるかとの思いで逃げていました。最後の3年は、本当にきつかった。正直、逮捕されてホッとしたところもあります」

週刊朝日  2014年3月28日号