雪景色に閉ざされた日々にも間近にあって、もう花が咲いたかと望まれ、明るい春の始まりを象徴するのが梅の花です。紅白に美しく咲いて馥郁(ふくいく)と香る梅について、平安時代前後の和歌を中心に見たいと思います。

梅は中国から渡来した

梅は、奈良時代以前に中国からもたらされたようです。平安時代以後の仮名表記には、「うめ」だけでなく、「むめ」とも書かれますが、その読みは、「馬(うま)」「菊(きく)」などとともに古い中国音だとも言われます。

『万葉集』での梅の和歌は、第一位の萩に次ぐ歌数で、100首を超えています。それは、当時の貴族達が先進国である中国の文化に憧れて積極的に受け入れようとした結果を示していると言えます。

そうした梅の花を詠んだ和歌の中に、現在の元号、令和の出典になった歌群があります。

「梅花歌三十二首ならびに序」とあって、その序には、まず天平二(730)年正月十三日に大宰帥(だざいのそち、九州全体の役所である大宰府の長官)だった大伴旅人の邸宅に人々が集まり宴を催すとあります。その後には、

〈時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ。梅は鏡前の粉を披(ひら)き、……〉

と続きます。ここの「令月」と「風和」から採って、「令和」としたのです。「和」は平和の和でもありわかりやすいですが、ここの「令」は、良い、すぐれた、りっぱな、という意味です。万葉学者で元号制定に関わった中西進氏は、「令」は「善」の意味で、元号について、「未来への願いや期待が込められた記号」(朝日新聞・本年2月4日朝刊)と述べられています。

「令和」は、すべてが素晴らしくて穏やかな世界を望む気持ちを込めた元号ということでしょう。「令月」も、正月を素晴らしい月と褒めています。春の初めの希望に満ちたさわやかさの中で咲くのに相応しいものとして、白い梅の花が詠まれます。三十二首の中から、旅人の歌を挙げてみましょう。

〈我が園に 梅の花散る ひさかたの 天(あめ)より雪の 流れ来るかも〉

梅の花が散る様子を、空から雪が流れ落ちてくるようだと喩えています。散る梅の花が雪のようで、天から地へと世界を繋げているような広さと清らかさを感じさせる、格調ある詠みぶりです。ここで梅を雪と関連づけて詠むことも、梅に鶯を結びつけることとともに、漢詩文に手本があって、それを和歌に美しく詠んだのです。

この他にも万葉集では、青柳と梅の枝を髪に挿して楽しむなど、貴族の雅な振る舞いも詠まれています。

梅の香と紅を愛でる

梅は、平安遷都に際しても内裏の紫宸殿の前庭に、右近の橘に対して左近の梅が植えられましたが、その後仁明天皇の時代に梅は桜に替えられたと言われます。また、平安時代になってから目で見る花の美しさから、新たに香りが注目されるようになります。

まず、『古今集』から梅の香を詠んだ歌を挙げてみましょう。

〈色よりも香こそあはれと思ほゆれ 誰が袖触れし宿の梅ぞも〉

〈春の夜の闇はあやなし梅の花 色こそ見えね香やは隠るる〉

一首目は、梅の花の色の美しさより香りに惹かれたことに気づいて、その香は人が香を焚きしめた衣の袖からの移り香かと思い、誰が袖を触れた家の梅なのかと問うた歌です。

当時盛んに行われた、室内や衣服に香木から香を焚き、くゆらせることを背景にした歌で、梅の香への興味も、こうした薫香(くんこう)の流行と関わることを思わせます。

二首目は、古今集撰者の一人凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の作で、春の夜の闇とはわけが分からない、梅の花を隠すが、色は見えなくても香りは隠れないよ、という内容で、夜の闇の中で梅の香りを楽しんだものです。

香りは視覚や聴覚に比べて曖昧な感覚のようですが、必ずしもそうではなく、強い印象を与えることもあります。例えば、それが人物の香りを思わせれば、むしろ身近に触れているような強い感覚が与えられます。それが冬ではなく、温もりもある「春の夜」であれば、いっそう艶めかしさを与えます。

〈梅が香におどろかれつつ春の夜の 闇こそ人はあくがらしけれ〉

〈春の夜は軒端の梅を漏る月の 光も香る心ちこそすれ〉

〈梅の花匂ひを移す袖の上に 軒漏る月の影ぞあらそふ〉

最初の二首は『千載集』の歌で、一首目の作者は和泉式部、二首目は藤原俊成です。

まず和泉式部の歌は、春の闇夜に漂う梅の香りに気づき、闇の中で人はそちらへと強く心が引き付けられると詠んでいますが、「あくがらしけれ」には、恋人を思わせる香りに自ずと引き寄せられたかのような官能的な味わいがあります。

俊成の歌は、春の夜の月に照らされた梅の花から漏れる「光も香る」と、周囲を照らす月光にまで梅の香が満ちていると詠んでいます。月の光の穏やかさや柔らかさまでもが想像されます。

三首目は『新古今集』にある藤原定家の歌です。梅の香りが人の袖に移り、軒から漏れた月の光が涙に濡れている袖に映って、香りと競い合っているという内容です。

この歌は、『伊勢物語』四段の、去った恋人を偲ぶ男を描く場面に基づいているようです。つまり、物語本文は、

〈……又の年の睦月(むつき)に、梅の花ざかりに、去年(こぞ)を恋ひて行きて、……うち泣きて、あばらなる板敷に月の傾くまで臥せりて、去年を思ひ出でてよめる。

月やあらぬ春や昔の春ならぬ 我が身ひとつは元の身にして〉

とあって、著名なものです。定家の歌は、女を恋しく思って泣いている男の描写と思えます。

梅について平安時代と万葉時代の、もう一つの差は、白梅中心から新たに紅梅が広まったことです。

〈紅(くれない)に色をばかへて梅の花 香ぞことごとに匂はざりける〉

〈折られけり紅匂ふ梅の花 今朝しろたへに雪は降りつつ〉

一首目は『後撰集』にある躬恒の歌で、梅は白から紅に変えても、香は別々にはならないという内容です。

二首目は『新古今集』にある藤原頼通の歌で、枝を折り取った色鮮やかな紅梅と庭の白雪を対照させています。

紅梅は、『枕草子』には、「木の花は濃きも薄きも紅梅」とあって大変に好まれたようです。『源氏物語』では巻名にもありますが、別のエピソ-ドの一つを紹介すると「御法(みのり)」の巻では、紫の上が亡くなる直前、実の孫のように可愛がっていた5歳になる匂宮に二条院を譲り、庭の紅梅と桜を特に大事にするように言い置きます。紫の上の死後、源氏が最愛の妻への喪に服す「幻」の巻では、匂宮が紅梅を格別に世話するのを見た源氏が紫の上を偲んで和歌を詠みます。

〈…梢をかしう霞み渡れるに、かの御形見の紅梅に鶯のはなやかに鳴き出でたれば、立ち出でてご覧ず。

植ゑて見し花のあるじもなき宿に 知らず顔にて来ゐる鶯〉

春の明るい鶯の声に誘われた源氏は、「花のあるじ」だった紫の上を思って悲しみを反芻するのです。

梅は新年の象徴

梅が咲く時は、初めに挙げた万葉集の歌以来、春の初めで新年が重なります。それは、本来的にまさにすべての人にとっての祝賀の時です。

『大和物語』一二〇段には、藤原仲平が長く待って右大臣に任ぜられた喜びの和歌が記されています。

〈遅く疾(と)くつひに咲きける梅の花 誰(た)が植ゑおきし種にかあるらん〉

遅い早いの差はあっても、ついに梅の花は咲いたよ、誰が植えた種なのだろう、と春に任官した我が身を、花開いた梅に言寄せて歌っています。

『蜻蛉日記』下巻には、作者の父の許での異母妹の出産祝いに添えた歌が見られます。

〈冬ごもり雪に惑ひし折過ぎて 今日ぞ垣根の梅を尋ぬる〉

年末の出産で、冬の雪の時を過ぎ、春を迎えた今日垣根の梅を尋ねます、と生まれた子を梅に喩えて祝辞を述べているのです。

しかし、このように梅の花は祝賀の象徴であるにもかかわらず、実際はそうした祝うべき時の裏返しとも言える悲しみもあります。上に挙げた伊勢物語や源氏物語はそうした例で、それは他にもあります。

〈東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘るな〉

これは、『拾遺集』にある菅原道真の歌です。道真が讒言に因って右大臣の官を奪われて太宰府に左遷された時に詠んだものです。都の道真邸にある梅の木に向かって、東風が吹いたら、邸の主人が留守でも春を忘れることなく、東の都から西の太宰府へと梅の花の香りを送れ、と詠んだものです。

道真から七代末に当たる菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)の少女期から晩年に至るまでの日記が『更級日記』ですが、冒頭が13歳での上総(かずさ、今の千葉県市原市を中心とした国)からの上京の旅で、京に到着後、共に旅をした継母との哀切な別れが描かれています。継母は、「優しかったあなたを忘れません。梅が咲く時に来ます」と言って去り、作者は悲しみの涙の中、年を越して梅の咲くのを待ちますが、満開になっても訪れず、ついに花を折って継母に送ります。

〈頼めしをなほや待つべき霜枯れし 梅をも春は忘れざりけり〉

約束して下さったのを、まだ待つべきですか。霜枯れていた梅にも春は忘れずやってきたのに、あなたはまだ来なくて、と。これに対して、継母の返事は、まだ待つようにというもので、作者の望みは叶えられませんでした。

上に引用した伊勢物語、源氏物語、菅原道真の和歌、更級日記、これらは春の梅が咲く、季節が明るい希望の時だからこそ、逆に切ない悲しさが伝わるのだと思います。

梅の咲く時は、やはり希望の季節です。この春こそはという望みを胸に抱く時です。辛いことも乗り越え、明るく胸を張って進むことを誓う時でありたいものですね。

参照文献

歌ことば歌枕大辞典  久保田淳・馬場あき子 編(角川書店)

和歌植物表現辞典  平田喜信・身﨑壽 著(東京堂出版)

万葉集・伊勢物語・大和物語・蜻蛉日記・枕草子・源氏物語・更級日記(小学館 新編日本古典文学全集)