■地方の牧場主に嫁いだ池田厚子さん

 同じく現在の天皇陛下の姉で、昭和天皇と香淳皇后の四女・順宮(よりのみや)厚子さまは、岡山県の牧場主・池田隆政氏に嫁がれた。その嫁入り道具が紹介された特集では、持参金は700万円(現在の価値で1300万~4600万円)と記されている。

「アサヒグラフ」1952年10月29日号 嫁入り道具を特集した記事には<岡山の牧場主池田隆政氏に嫁がれた順宮厚子内親王のお輿入れの諸道具は、御婚儀に先立つ十月初め岡山市伊福高台の新居に届けられた。トラックで六台、梱包で百数十個という量で、三十四坪二合の新居には到底納めきれず、日常の身の廻り用品以外は旧池田邸の蔵の中に納められた。この他に持参金が七百万円也>と記されている。そのほか、主な嫁入り道具は以下の通り。三菱製電気冷蔵庫、電気洗濯器(東芝製)、普通のシンガー・ミシンと電気ミシン(重機製)、ビクター製電気蓄音機、ピアノ(山葉製、皇后陛下の持つておられた品)、大理石の置時計(精工舎製)、洋食器ケース(食器は銀製)、小引出し、衣裳箪笥(四棹)、総桐箪笥、寄せ木細工の裁縫箱、編物箱(厚子夫人は編物がお好きの由)、雛祭用﨔塗盆(径約一尺)、鏡台、御誕生祝いに秩父宮はじめ六宮家より贈られた花瓶(高さ約八寸)※メーカー名など原文ママ (C)朝日新聞社
「アサヒグラフ」1952年10月29日号 嫁入り道具を特集した記事には<岡山の牧場主池田隆政氏に嫁がれた順宮厚子内親王のお輿入れの諸道具は、御婚儀に先立つ十月初め岡山市伊福高台の新居に届けられた。トラックで六台、梱包で百数十個という量で、三十四坪二合の新居には到底納めきれず、日常の身の廻り用品以外は旧池田邸の蔵の中に納められた。この他に持参金が七百万円也>と記されている。そのほか、主な嫁入り道具は以下の通り。三菱製電気冷蔵庫、電気洗濯器(東芝製)、普通のシンガー・ミシンと電気ミシン(重機製)、ビクター製電気蓄音機、ピアノ(山葉製、皇后陛下の持つておられた品)、大理石の置時計(精工舎製)、洋食器ケース(食器は銀製)、小引出し、衣裳箪笥(四棹)、総桐箪笥、寄せ木細工の裁縫箱、編物箱(厚子夫人は編物がお好きの由)、雛祭用﨔塗盆(径約一尺)、鏡台、御誕生祝いに秩父宮はじめ六宮家より贈られた花瓶(高さ約八寸)※メーカー名など原文ママ (C)朝日新聞社

 台所用品は<米櫃もブリキ製の手軽なもの>とあり、一般的に使われているものと変わらないように見えるが、冷蔵庫や洗濯機、ミシンなどの家電のほか、銀製の洋食器などもあり、<全て国産ながら垂涎もこれ無理からぬこと>と綴られている。やはり当時の感覚では贅沢品だったのだ。

 結婚式は1952年10月10日、同じく<東京芝高輪光輪閣で、宮内省式部長官松平康昌夫妻媒酌のもとに、三々九度の盃>(「アサヒグラフ」1952年11月5日号より)をかわされた。

 その後、厚子さまの“お国入り”では、岡山駅から新居までの約4キロをオープンカーでパレードし、押し寄せた人たちで路面電車が立ち往生するほどの人気だった。

■新婚旅行ブームをつくった“おスタちゃん”こと島津貴子さん

 昭和天皇の末娘、清宮貴子さまは明るい性格と抜群のファッションセンスから、“おスタちゃん”と呼ばれ国民的な人気を集めていた。1959年3月、成人に際しての記者会見で好きな男性のタイプを聞かれ「私の選んだ人を見てください」と答えた言葉が流行語になったほどだ。

 兄である明仁親王(現・天皇陛下)が「テニスコートの出会い」を経て、正田美智子さん(現・皇后陛下)との結婚を発表したのが前年の1958年。ミッチー・ブームとともに、皇室から一般社会へと恋愛結婚のブームを巻き起こしていた。

 注目された”おスタちゃん”のお相手は、銀行マンの島津久永さん。職場まで電車で通勤し、昼休みに屋上でバレーボールをする庶民的な様子が伝わるが、<皇后さまのいとこで、目をかけられていた青年>(「アサヒグラフ」1959年4月5日号より)だった。

「アサヒグラフ」1960年3月27日号 記者会見で、サラリーマンの妻としての自信はおありですか?と問われ「自信はございません」と答えた貴子さん。<久永氏の方へ、大きく首をかしげて笑う貴子さん> (C)朝日新聞社
「アサヒグラフ」1960年3月27日号 記者会見で、サラリーマンの妻としての自信はおありですか?と問われ「自信はございません」と答えた貴子さん。<久永氏の方へ、大きく首をかしげて笑う貴子さん> (C)朝日新聞社

 結婚式は1960年3月10日、光輪閣で行われた。その日の午後には、海運クラブで<皇太子(現在の天皇陛下)、義宮(天皇陛下の弟、常陸宮さま)、鷹司夫妻、安倍学習院長など、約百二十人の関係者が集まって華やかな披露宴が二百平方メートルの大食堂で行われた>(同)

 新婚旅行は宮崎。当時、アイドル並みの人気だった”おスタちゃん”の行く先々には、報道陣や地元の人たちが詰めかけた。島津夫妻がたどった旅程は「島津ライン」と呼ばれ、ハネムーンの定番ルートになった。

「アサヒグラフ」1960年5月22日号 島津夫妻の新婚旅行は宮崎へ。神戸から別府へ向かう関西汽船「くれない丸」の船内で<久永氏も 報道陣からカメラを向けられる合間に夫人の姿をパチリパチリ> (C)朝日新聞社
「アサヒグラフ」1960年5月22日号 島津夫妻の新婚旅行は宮崎へ。神戸から別府へ向かう関西汽船「くれない丸」の船内で<久永氏も 報道陣からカメラを向けられる合間に夫人の姿をパチリパチリ> (C)朝日新聞社

 憧れと親近感が入り交じるプリンセスたちの“降嫁”が一般社会の結婚に与える影響は、決して小さくなかったのだ。(AERAdot編集部 金城珠代)