たとえば、ちひろが初めて落合さんの家にいったときのこと。おじさんとおばさんの頭には「白いものがのっていた」。「わたしはなんだかおかしくなった。……白いタオルだったのだ」と語られる。そのほか、林一家が何度か引っ越していること、そのたびに「家が小さくなっている」こと、父がもとの会社を辞め、教会の紹介で再就職したこと、父母とも何年も前のバザーで買った緑色のジャージの上下をいつも着て頭に白いタオルをのせていること、ふたりともあまりお腹がすかないと言って、一日に一食ぐらいしかたべないこと、よく落合家から食べ物をもらってきてちひろに食べさせること、教会のリーダーたちに「だまされた」と訴えている女性がいることなどが、とくに批判や糾弾なしに淡々と語られる。
「知らざる人」から淡々と差しだされてくる事実は、むきだしであるだけに、その重みがいっそう際立つ。
信者たちのまわりで、はっきりと反対の意思を表すのは、ちひろの姉と、落合家のひとり息子、そしてちひろの叔父と叔母だ。しかし、ちひろの心にも少しずつ変化が起きていく。よく読めば、淡々とした言葉のなかに、「うっすらと知る人」、すなわち覚醒の間際にいる人のまなざしがにじみでている。わたしはこの手法から、ヘンリー・ジェイムズの名作『メイジーの知ったこと』を思い出した(身勝手な両親の離婚で、少女がふりまわされつつ、おとなの世界を観察する話です)。最後には、愛しているはずの人々と同じものが見えなくなる。
宗教とはまったく別件(と見せかけて)で、心理がスイッチする一瞬をとらえた場面がある。ちひろは小四で「ターミネーターII」と出会って、超美少年のエドワード・ファーロングに激惚れし、すると翌日から、好きだった西条くんもだれもかも、「なにかのまちがいではないかと思うほど」ぶさいくに見えて衝撃を受けるのだ。見えてしまった、もう「見えない力」は取り戻せない。さて、これは覚醒だろうか、むしろ洗脳だろうか? 真実の姿が見えてきたのか、はたまた、エドワード・ファーロング教にはまってそれ以外は間違ったものに見えてきたのか。目の前の世界が一変する瞬間をあえて戯画的に描いているが、この作品の要諦となる場面だろう。
本作の三分の二が割かれている中学三年のときに、ちひろにとって大きな出来事が続けて起きる。恋愛、受験、その先の進路、そして「星々の郷」への旅、両親との関係……。
篤信と妄信、忠誠と不寛容、愛と狂気の境はどこにあるのか。作者にとってまちがいなく大きな転換点となる力作だ。(寄稿/翻訳家・鴻巣友季子)