ワシントンを視点の中心におきながら、日米外交を観察してきて痛感することがある。
それは、日米外交はあまりに長いこと、極めて限られた人たちの手によってのみ動かされてきたということである。日米外交の議論における「日本の声」のトーンは一色であり、そこには、日本に存在する多様な声が全く反映されていない。
ワシントンに出入りする日本の顔は常に同じ顔ぶれで、受け入れるアメリカ側の顔ぶれにも変化はない。ワシントンで開催される会議でも、シンポジウムでも、また公に発表される様々な声明でも、ごく一部の例外を除き、新しい意見が含まれていたためしがない。
例えば、わかりやすく言えば、「安保法制反対」「辺野古の基地建設は見直すべき」「原発再稼働反対」「憲法9条改正反対」といった声は、日米外交の現場で真剣に取り扱われることは、まずないのである。日本で世論調査を行えば、これらの声が多数派となることも少なくないにもかかわらず。
「安全保障や外交は専門的な分野であるから専門家でなければ判断できない」と政府関係者や研究者から指摘されることもある。
しかし、外交が取り扱う事項は米軍基地、原発、憲法、といったテーマからも分かるように、日本の「国のかたち」を大きく左右するものが多い。そこに一般の国民の参加が認められないようでは民主主義国家とはいいがたい。
「外交に民主主義を」――。
これは私が外交にかかわってきた信条である。それを実現するために各国各層の人々との外交チャンネルを、特にアメリカと日本との外交チャンネルを広げるべく活動を行ってきた。トランプ氏の強硬な政策の数々には全く賛成できないが、トランプ氏当選直後の日本政府の必死の働きかけや、その後に起きた現象をみて、改めて外交の多様化の必要性を実感している。(弁護士・猿田佐世)