オバマ大統領が安倍首相と共に訪れた、東京・銀座の高級すし店「すきやばし次郎」。どんな店か知ってますか? 一言でいえば、「寿司屋にして寿司屋にあらず」。幸福で特別な体験ができるけれど、それゆえ不幸を味わうこともある、食のアミューズメントスポットなのです。(週刊朝日編集長・長友佐波子)

*  *  *

 ほろり。

 口の中で、すしが溶けた。

 手で口まで運んでも崩れなかったすしが、口に入れた瞬間、ほろりとほどけていく。舌と上あごで嚙むまでもなく、自然と、シャリとネタの香りと味が口中に広がる。米と米の間に空気を含んでいるからか。魔法のようなすしだ。

 ややきつめで、甘くない酢は、この店専用に開発してもらった特注品という。小ぶりで粘つかない米。ネタとシャリの大きさ、温度のバランスも絶妙だ。

 筆者が「すきやばし次郎」を訪れたのは昨年4月。いま88歳の店主、小野二郎さんの握りを食べる昼食会(一人4万4千円也!)に、運良く潜り込めた。

 カウンターに立った二郎さんは、無駄のない動きで手際よく握る。向かって右端の席から、とん、とん、とリズムよく置いていく。出された客は、すぐさま手に取り口にする。全てに無駄がなく、ただおいしいものを食べるためだけの時間が過ぎていく。

 メニューはおまかせのみ。その日、最も良いネタを客数の数倍、仕入れ、仕込み、最高の部位のみを供する。

 二郎さんの隣では、長男禎一さんがネタを準備する。奥の厨房では弟子たちが、出す順番と客の食べる早さを逆算してエビをゆで、魚をおろす。最良の状態で食べるため、客も予約時間に遅れてはならない。

 タコは甘く、甲殻類の味がする。何度も塩水で洗い、臭みも粘りもぬめりもない。しっかりしながら、すっと歯でかみ切れる。甘く、ほんのりエビやカニの香りがする。

 中トロが美味なのは当然だが、ふっくらと身厚なゆでたてのエビも、とろけるようなイワシも、食べたことがない旨さだ。煮穴子、煮ハマグリは滋味あふれるツメが憎い。イクラのづけ加減はやさしい仕上がり。かんぴょう巻きは甘みもほどよく、海苔は磯の香りがする最高級品だと感じる。3日も漬けたというコハダは、白くならず、きしきしもせず、技量を感じさせる。……ほかの寿司屋で出されるそれらと同じ種類の魚介類とは思えない。それらのネタが、それぞれに合う温度のシャリと合わさって握りになる。

 これこそがすしだ。そう思ったら、ほかの寿司屋では食べられなくなる。特別で幸福すぎて、ほかがみな霞んで見えてしまう。そんな不幸を味わわないためには、「二郎さんのすし」はすしではない、別の食べ物だ、と思ったほうがいい。

 毎日更新される献立表には、出る順番にネタの名前が、日本語と英語で書かれている。というのも、外国人客が多いからだ。世界的なフレンチのシェフ、ジョエル・ロブション氏も二郎さんの常連の一人という。

 実は二郎さんは、日本よりも欧米、最近は特に米国で有名だ。2011年に製作され、昨年日本でも公開されたドキュメンタリー映画「二郎は鮨の夢を見る」(デビッド・ゲルブ監督)の影響だ。映画を見たハリウッド俳優ら、海外の有名人がぞくぞく訪れる。オバマ大統領もきっと、その噂を聞いていたに違いない。

 銀座・数寄屋橋交差点近くのビル地下1階にあり、トイレは共同と、環境は決してよくない。グルメでも知られる田中康夫氏が1996年の著書『いまどき真っ当な料理店』で、「優れた鮨屋」としながら、ビルに直結しているコンコースを通して地下鉄丸ノ内線から臭いが漂ってくる気がするとして辛口の評価をしたほどだ。

 しかも一人3万円からの高値。にもかかわらず、予約開始となる毎月1日は電話がつながらない。映画の影響もあり、ただでさえ予約の取りにくかった店が、いまや絶望的に予約できない店になっている。

 そのうえ、予約が取れたとしてもぬか喜びはできない。冒頭で「幸福だが不幸」と書いたのには、もう一つ理由がある。二郎さん本人が握るかどうかは、当日の彼の体調次第、神のみぞ知るからだ。二郎さんの「魔法のすし」は彼にしか握れない。二郎さんがカウンターに立たない日は、ネタのすばらしさは同じでも、あの「口中でほどける感覚」は、残念ながら諦めるしかない。

 筆者が食べた日は、カレイに始まり、巻物、卵まで、1時間半に全部で21貫。小ぶりだから完食できると言われ、男性陣はぺろりと平らげたものの、筆者にはやや多め。アレルギーがあるためパスしたウニの代わりが来なくてほっとしたほど、はちきれそうに満腹だった。オバマ大統領が半分ほどでやめ、最後まで食べられなかったのは理解できる。とはいえ、すしの「常識」を覆す、すしの数々。幸福すぎるひとときだった。

 帰りに、二郎さんに握手してもらった。

 その手は、女性のように細く、しみひとつなく、すべすべしていた。90歳近いとは思えない、つややかさ、みずみずしさ。「いったいどんなお手入れを?」。二郎さんは笑って答えた。「何もしていませんよ。毎日、酢水と酢飯を触っているのが、肌にいいのかもしれませんね」

 魔法を生み出す手は、魔法のすしと同じく、幻のようにはかない趣がした。

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