哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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政治家たちの話を聴いていたら、他人に屈辱感を与える技術に卓越した人が多いということに気が付いた。
『ブルシット・ジョブ』のデヴィッド・グレーバーによると、人間に価値がないと感じさせる方法は無数にあるのだが、「典型的にアメリカ的な言説」として「どの口が権利を言うか言説(right-scolding)」なるものが存在するらしい。自分には何らかの権利があると思っている人間に向かって、「どの口が言うか」と黙らせる技術である。この右翼的ヴァージョンは「社会が暮らしに責任を負っている、あるいは、重病者には医療サービスをおこなわねばならない、出産休職、職場の安全、法のもとの平等な保護を保障しなければならない、といった発想を激しく攻撃することに重心を置いている」。
日本でも福祉制度の受益者を「フリーライダー」として罵倒する人たちがいる。貧しい人や病気の人は自己責任でそうなったのだから「社会」に支援を求めてはならないというあのサッチャー主義はいまも日本では現役である。
「どの口が言うか言説」には左翼版もある。ソ連が愛用した
「そっちこそどうなんだ話法(Whataboutism)」である。ソ連国内の人権抑圧を欧米が批判すると、奴隷制や植民地主義でさんざん人権抑圧してきた国に「どの口が言うか」と黙らせた。
「第三世界の抑圧され収奪された人民」を前にしたとき、ぬくぬく暮らしてきた先進国民が人権を請求するなど笑止千万であると、極左が市民の権利請求を棄却するときにもよく使われた。
世界中で党派を超えて愛用されているところを見ると、グレーバーが言うように「典型的にアメリカ的な政治的言説」ではなさそうだが、新自由主義イデオロギーとともに世界中に拡がったことは間違いない。
日本でもこの語法に熟達した政治家や評論家が近年増殖してきた。遠からず、相手に屈辱感を与え、沈黙に追い込むことを「成功体験」として内面化した人々が世の中にあふれ、市民的な権利請求をことごとく鼻先で冷笑するような社会が到来するのであろう。でも、それで誰が幸福になるのか、私にはよくわからない。
内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数
※AERA 2020年9月14日号