倉本はハワイでの3日間の打ち合わせについて、こう振り返る。

「裕ちゃんは、ヘミングウェーの『老人と海』をずっとやりたいと言っていましたね。彼はとにかく海が好きなんですね。結構、裕ちゃんとしゃべりました。その時は病状が予断ならない状態とは知らずに、真剣に打ち合わせを続けていました。ぼくの中では、裕ちゃんが言っていた、ヘミングウェーの『老人と海』が、やはりありましたね。結局、死ぬときは独りでしょう? その独りの孤独に、ぼくはドラマを収斂したかった」

 それからしばらくして裕次郎が帰国してから、倉本は東京で裕次郎、渡哲也、小林専務と何度か映画プロジェクトの打ち合わせをした。しかし、シノプシスは一向に進まなかった。裕次郎が抱いているイメージと、小林が望む「石原プロらしさ」。相反するベクトルゆえ、倉本のなかで構想がまとまらなかったという。

 86年4月1日。倉本は久しぶりに裕次郎に会った。映画プロジェクトの話が進んで、裕次郎の盟友で、倉本とも日活時代からの仲間である斎藤耕一が監督として加わることになり、赤坂東急ホテル1301号室で打ち合わせをした。

 倉本によれば、この年の4月は、打ち合わせのために3回、富良野から上京している。裕次郎との打ち合わせの後は、渡哲也と飲むのが常だった。酒が飲めなくなった裕次郎に気取られないように、渡とはいったん別れてから、別な場所で落ち合っていた。

 5月の初め、いつものように裕次郎たちとの打ち合わせ後、渡と飲んでいた時のことだった。渡から、裕次郎ががんで余命宣告を受けていることを聞かされた。シナリオが出来上がっても裕次郎はもう映画を作れなかった。ただ、裕次郎に希望をもたせるために、渡たちはシナリオをすすめているふりをしていた。あなたをだましていました、すみません。と渡は倉本に両手をついた。

 裕次郎が亡くなる4カ月前、87年3月に倉本は療養中の裕次郎をたずねて夫人と一緒にハワイへ向かった。裕次郎夫妻と会って、30分ほど談笑したが、映画の話は一切しなかったという。

 もしも倉本との「船、傾きたり」が成立していたら? ヘミングウェーの「老人と海」のような男の孤独を描く映画が成立していたら? 裕次郎と倉本の「映画にかけた夢」が実現していたら? 映画史が変わり、裕次郎への評価も変わっていたかもしれない。「敗れた夢」「かなわぬ夢」も「永遠の夢」なのである。(敬称略)

(取材・構成 娯楽映画研究家・佐藤利明)
※週刊朝日オンライン限定記事