「『船、傾きたり』は、映画会社がつぶれる一日の物語です。これは裕ちゃんとマコちゃん(北原三枝=石原まき子)の最初の『狂った果実』から発想したんです。あれをそのまま使いたい。主人公の夏久が、映画会社の撮影所長代理になっているのが裕次郎。仲間の岡田真澄、弟・津川雅彦たち、ともに青春を過ごした連中は、映画会社にいるやつもいれば、テレビ局のディレクターになっているのもいる。夏久はマコちゃんの恵梨と結婚していて……という『狂った果実』の後日譚です。当時、中年に差し掛かっていた津川雅彦や、岡田真澄を使うという発想です。映画黄金時代を築いた裕次郎が、斜陽の映画界で映画に殉じていく物語です。最初はテレビスペシャルで企画しました」

 その「ゼロックス・スペシャル 船、傾きたり」企画草案は、79年に倉本によって書かれた。

 しかし、結局実現をみなかった。これが企画された79年秋、石原プロがテレビ朝日系「西部警察」をスタートさせる。小林専務の「ドンパチ路線」はますますエスカレート。空前の「西部警察」ブームが席巻することになる。

 その後、北海道・富良野に移った倉本は、84年、脚本家と俳優志望者のために「富良野塾」を開いた。裕次郎が生還率3%の解離性大動脈瘤の手術から奇跡の生還を果たしてから3年後のことだった。

 85年、小林専務から倉本に映画の脚本の依頼があった。
「どんな映画を作りたいんだ?」の問いに、小林は裕次郎の言葉として、こう話した。

「派手なドンパチはもう沢山だ。そんな仕掛けは何もいらない。そんなことより自分は今回、役者としての仕事がしたいンだ。役者としての脚本を書いてくれ」(「夏に死す──追想・石原裕次郎」)

 大スターの石原裕次郎が「役者としての仕事がしたい」と思ったことに、倉本は衝撃を覚えた。昭和30年代、日本映画界のトップに君臨した映画スターが「役者がしたい」と考えていることを、小林から聞いた倉本は、その裕次郎のために脚本を書こうと思ったのである。

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