炭治郎は、母と弟妹が殺害された時の自分の行動を悔いている。過去の出来事を、まるで昨日のことのように、毎日毎日後悔している。なぜ、自分は、あの日、ひとりだけ鬼の来ない場所にいたのだろうかと。ごめんな、ごめんな、と心の中で謝り続けている。一方で、炭治郎の「幸せな夢」の中に、父親が元気な姿で登場することはない。なぜか?炭治郎にとって、父親は「病死」という自然の摂理で亡くなっているからだ。どんな人間でも、人を「寿命」から守ることはできない。
杏寿郎の母の死因も、病によるものだった。最愛の母の、若すぎる死だが、それでも杏寿郎は「人間の生のルール」を破ろうとは思わない。それは、杏寿郎が「人間として生きること」の真理を十分に理解し、すべての「人間の生」に起こりうる不幸を、受け止める準備ができているからだ。これは彼の母親の教えでもある。
<老いることも 死ぬことも 人間という儚い生き物の美しさだ 老いるからこそ 死ぬからこそ 堪らなく愛おしく 尊いのだ>(煉獄杏寿郎/8巻・第63話「猗窩座」)
では、杏寿郎の「父親」に関する夢はどんな夢だろうか。実は、これも「幸せな夢」ではない。父・煉獄槇寿郎(れんごく・しんじゅろう)は妻を亡くした後、酒に溺れ、鬼殺隊「炎柱」であることの誇りを見失ってしまった。杏寿郎は「自分が柱になれば、元のような父に戻ってくれるのではないか?」と淡い期待を抱いていたが、実際に杏寿郎が「炎柱」に就任した際にも、父はひどい言葉を投げつけるだけだった。
■杏寿郎にとって大切な「真理」と「現実」
杏寿郎は「寂しさ」の中で戦っていた。母と約束した「自分の責務」を果たすために。そのため、杏寿郎は決して、うその、「幸せな夢」を見ることができなかった。
戦闘の後、そんな杏寿郎のもとに亡き母があらわれる。「立派にできましたよ。」と母は優しくほほ笑みかけた。死んだ人間との邂逅は、非現実的な夢物語だと思われることが多いが、『鬼滅の刃』においては、死んだ人間との再会はまぎれもない「現実」で、自分の務めを果たしきった杏寿郎の心を、真の意味でねぎらい癒やした。
彼は、眼前の敵を見すえ、戦況を打開する方法を模索するために「今」を見つめていた。煉獄杏寿郎の目にうつるのは、悲しくて厳しい現実世界であったが、幸せだったころの思い出は、彼の心の中に「真実」として、ずっとあり続けたのだった。
◎植朗子(うえ・あきこ)
1977年生まれ。現在、神戸大学国際文化学研究推進センター研究員。専門は伝承文学、神話学、比較民俗学。著書に『「ドイツ伝説集」のコスモロジー ―配列・エレメント・モティーフ―』、共著に『「神話」を近現代に問う』、『はじまりが見える世界の神話』がある。