「アラビヤの唄」を夫婦で結婚記念日に聞いていたら、夫が引っ張られ、戻ってきたら足が不自由になっていたという話も知っています。むちゃくちゃな時代です。みんな息をひそめているしかなかった。戦争は世界の色を奪ってしまうんです。
日本は大和の国と言いましたでしょう。大きな和というのは、男も来い、女も来い、体の不自由な者も、国籍や肌の色が違う者も来い来いと。みんなが大いなる和の下に暮らすというのが真骨頂です。大和の国は戦争をしてはいけない。それに反したら日本じゃなくなるんです。日本が再びその方向へ向かわないよう注意しなければなりません。
終戦後、私は16歳で上京し、国立の音楽学校に通っていました。そのときに実家が貧しくなったので、銀座4丁目の喫茶店でアルバイトするようになったんです。その2階がサロンになっていて、俳優、映画監督、作家、デザイナーなどいろんな人が出入りしていました。
江戸川乱歩さんなんかも来ていましてね。そこに出版社の人たちを従えていらしたのが、当時売り出し中の三島由紀夫さんでした。私は喫茶店のマスターに、余興としてシャンソンを歌わされていたんですが、三島さんが興味を持たれ、お話しさせていただくようになりました。
その後、シャンソン喫茶「銀巴里(ぎんぱり)」のオーディションに受かって歌うようになりますと、そこにもいろんな人が見えるようになって。三島さんに吉行淳之介さんや三浦朱門さん、岡本太郎さん。病弱だった寺山修司君も時々来るようになってファンになってくれた。それがきっかけで私に舞台の台本をささげてくれまして、「毛皮のマリー」とか「青森県のせむし男」につながっていったんです。
その後、三島さんが戯曲化した「黒蜥蜴」に主演しましたら、私の大出世作になりました。ニューヨーク・タイムズにも大きく取り上げられまして、三島さんも大喜びでした。
三島さんとの思い出はあまりに多すぎますね。ウィットに富んだ会話ばかりです。あるとき、三島さんに「君には95%の長所があって、あとの5%が最悪だ。95%の長所を吹き飛ばすだけの短所がある」と言われたんです。「95%の長所を吹き飛ばすなんて素晴らしいじゃないの。それはなんですか」と聞いたら、「俺にほれないことだ」って。