経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
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「愛の賛歌としての経済」というテーマで本を書こうとしている。ある音楽家のお言葉に触発されて、この構想が浮かんだ。
無謀な試みかもしれない。経済って要はカネが全てでしょ。儲けろ、稼げって話でしょ。愛なんか入り込む余地ないじゃない。こう言われてしまいそうである。
だが、経済活動は人間の営みだ。人間の営みの中に愛がないわけがない。愛なき営みは人間の営みにあらず。愛を失った時、人間は人間でなくなる。その意味で、この世には、実は人間ではない人間が結構いると言わざるを得ないだろう。経済活動ではない経済活動も、実は結構、営まれていると考えられる。
どのような条件が備わった時、経済活動は愛の賛歌になるのか。困った時の聖書頼み。そう思った瞬間、ひらめきが降臨した。それは、新約聖書に三つの愛が登場するということだ。
邦訳版では、いずれも愛に一本化されてしまっている。だが、ギリシャ語の原典では、三つの愛が使い分けられている。エロスとフィリアとアガペーだ。エロスは欲求としての愛。フィリアは友の愛。アガペーは一方的に与える愛だ。アガペーは友だけに限定されない。誰に対してでも、無償で手を差し伸べる愛だ。アガペーは神の愛である。
経済活動はエロスの賛歌に決まっている。そう思われる方は多いだろう。確かに、経済活動には報酬が伴うことになっている。フィリアの友愛精神にのっとった行動も、ボランティアでは経済活動とはみなされない。いわんや、相手を選ばず無償で差し出すアガペーは、経済活動とはおよそ無縁だ。そう指摘されそうだ。
だが、本当にそうか。モノづくりは経済活動だ。モノをつくる人々は、他者を喜ばせたいからモノをつくる。サービス業は経済活動だ。サービスする人々は、他者を喜ばせたいからサービスする。人々は、見ず知らずの他者のためにモノをつくり、サービス力を磨く。ひたすら、自己愛のために経済活動を営む人間は、さほど多くないかもしれない。人間の営みである経済活動と神の愛は、さほど遠くない関係にあるかもしれない。何とか、愛の賛歌本に取り掛かることが出来そうな気がしてきた。
浜矩子(はま・のりこ)/1952年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業。前職は三菱総合研究所主席研究員。1990年から98年まで同社初代英国駐在員事務所長としてロンドン勤務。現在は同志社大学大学院教授で、経済動向に関するコメンテイターとして内外メディアに執筆や出演
※AERA 2021年3月22日号