人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は「黄昏の時代の五輪」。
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「呪われたオリンピック」と外国のマスメディアは呼んだ。コロナに始まり、いやそれより前に、予算がかかりすぎるとの理由でやり直しになった国立競技場の建築案、エンブレムの変更、一年の延期を経て大会組織委の森会長の失言にからんでの辞職。
橋本、丸川、小池の女性三人がトップになったが、開会直前になっても、音楽担当者や演出家らの信じられない過去の言動など、質が落ちたと言わざるを得ない。
一九六四年の前回の東京五輪を持ち出すまでもなく、長野の冬季五輪では、演出に浅利慶太、音楽は小澤征爾など考えられる最高のメンバーがそろっていた。会場と各国をオンラインでつなぎ、小澤征爾の指揮のもと、ベートーベンの「第九」を世界の五大陸が同時合唱するなど、感動する瞬間もあった。
前日になって演出家を辞めさせるなどアクシデントが重なったとはいえ、今回の開会式の何という冗漫さ。意味不明の演(だ)し物を次々繰り出し、歌舞伎の「暫(しばらく)」や、木遣りなどの日本の伝統芸能も説明不足で、外国人にはわかるまい。
国立競技場を評して「黄昏の時代の象徴」と朝日新聞にあったが、まさにその通り。開会式はこれからの日本を象徴しているようで、見ているうちに重苦しく暗い気持ちになった。
ビートたけしさんはテレビでまず「素晴らしかったですね」「途中で寝てしまったよ」と皮肉たっぷり。「外国に恥ずかしくて行けない」とまで言い切った。
観客のいないせいではない。ともかくつまらなくて見ているのが辛かった。
それでも各国の選手が登場すると、そのお国ぶりの衣装や張り切った表情に応援したくなる。時代はヨーロッパ・アメリカから中東・アジアを経てアフリカに回帰しつつあると思えてくる。ミトコンドリアを持ち出すまでもなく、人類の起源はアフリカなのだ。