ドラァグクイーンとしてデビューし、テレビなどで活躍中のミッツ・マングローブさんの本誌連載「アイドルを性(さが)せ」。今回は、ネットの声について。
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様々な事情や感情が交錯する中、どうにか開幕した東京大会ですが、やはりオリンピック。私も家や楽屋でチャンネルをザッピングし、ネットニュースをサーフしながら、歓喜とため息に身を任せる毎日です。
ロス大会があった84年から数えると、私が記憶する五輪としては実に20回目の大会となります。しかしながら改めて感じるのは、新聞とテレビだけで観ていた頃のオリンピックはもっと純粋にワクワクしたなということ。情報のスピードや具体性は圧倒的に進化した一方で、ネットメディアに付随する「声という名の文字」は、往々にして人の興奮を萎えさせます。確かに「ネットの声」は、今や情報を発信する側にとっても重宝せざるを得ないものです。もはやそれらを頼りにしないと文字数すら埋められないような情報も少なくありません。しかしその結果、オリンピックにおいても、競技者の人格や姿勢(神対応だとか謙虚だとか真摯だとか)ばかりがフォーカスされている風潮にはいささか辟易します。感動を貪るだけでなく、さらに「優等で健全なドラマ」を求めるという図々しさ。しかもその理由は「我々の税金を使っているのだから」という“さもしさ”。
ちょっとでもわがままや傲慢に見えた人には、「不快!」だ「残念!」だといった難癖を、さも正義のごとく浴びせ、挙句の果てには「素直に応援できません!」などと恩着せがましいことこの上ない言葉を書き残す、そんな機知の欠片もない連中の「声」込みで情報に接しなければならない時代というのは、非常に疲れます。「だったらネットなんて見るな!」というのも、またそういった連中の常套句であり、まともな神経を持った多くの人たちは、ひたすら疲弊していく一方です。今大会は無観客開催故に、そのような「声」がいつも以上に露呈し、選手たちにも響いてしまっている気がします。