そんな時だった。工藤会の直系組長から呼びつけられた。なぜか、組事務所ではなく、喫茶店だった。

「組長は世間話をしながら、急に険しい表情で『つまらんな』『あいつは本当に腹が立つ』と何度か繰り返しました」

Aさんは当時をこう振り返る。組長から何度もそう言われ、覚悟を決めたという。

「腹が立つという男を私に襲撃してこいという指令だと悟りました。いよいよ来たかと覚悟を決めざるを得ませんでした」

 Aさんは、数人の組員と「襲撃部隊」を結成。ヒットマンとして「武器」も手渡された。夜闇に隠れながら、ターゲットの男性を見張ったという。しかし、なかなか襲撃のチャンスがない。

「いざ襲撃、と私は銃を腹に忍ばせて深夜や早朝、張り込みました。昼間に尾行したこともあった。行くぞという意気込みと、人を殺すという怖さの両方ありました。覚悟を決めていたが、途中、何度もやめたい、やりたくないと思ったこともありました」(Aさん)

 しかし、その後、理由は判然としないが、襲撃の「指令」はうやむやになったという。

「工藤会では組長、親分から襲撃を示唆されたら、行くしかない。それがヤクザの世界。特に工藤会は厳しい。指令通り襲撃すれば、当然、刑務所行きです。警察に組長の名前、指令だと自供せずに、自分で罪を被れば、出所した時には出世とカネが待っている。刑務所にいる時も工藤会はしっかり家族の面倒を見てくれる。幹部になれるかは、工藤会のために身を賭けることができるのかが重要だった。その頃は、襲撃して組のためにやらないという思いでした」

 だが、Aさんはヤクザになって約20年後、トラブルから組を脱退。かなり苦労したという。福岡にいることはできないと知人を頼って、九州の別の県で暮らすようになった。

「福岡から姿を消すことで、なんとか組を抜けることができた。頂上作戦が始まる数年前だった。あのままヤクザをやっていたら、自分にも新たな指令がきて、長く懲役に行くことになったでしょう。工藤会で仲良かった組員の一人がある襲撃事件に関与、長い実刑判決を受けた。一度だけ、安否を気遣って連絡を取ったら『刑務所で俺の人生が終わるかもしれない。
ヒットマンとしてやったが、これでよかったのかどうか…』と複雑な心境を吐露していました」

 そしてAさんはこう振り返る。

「ヤクザをやっていい思いをしたのも事実だが、その裏では暴力と恐怖で一般人を支配してカネを巻き上げていた。今は普通の仕事をしています。晩酌の焼酎が楽しみという、ヤクザの時代では信じられないような生活です。でも、組を抜けて本当によかったと思います」

(AERA dot.取材班)

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