下重暁子・作家
下重暁子・作家
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 人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、愛について。

*  *  *

 朝日新聞東京本社が、まだ有楽町にあった頃、すぐ近くに日動画廊があった。

 朝日が移転後、画廊の建てかえの間、外壁を猫の絵で囲むことになり、当時、一陽会に所属していた画家・坪井正光氏に依頼された。

 長期間、外で雨露にさらされるわけだから、絵の具というわけにはゆかず、吹きつけて描いてゆくエアブラシ技法で正面に猫の顔をクローズアップする。電通通りに面した正面には、雪原をバックに野性味のある猫の横顔。その依頼を受けてから坪井氏はモデルになる猫探しに走りまわった。雑誌など印刷物の中にもいないか?

 そしてついに見つけた。ある女性雑誌のグラビアに、私に抱かれたロミオ。

 この目だ! 求めていた、人を寄せつけぬ厳しい目付き。短毛のアビシニアンと縞のある日本猫とのミックス。

「あなたの猫を描かせてください。他にはいないあなたのロミオを!」と電話がきた。

 私は驚いた。知らない画家からの突然のラヴ・コール。どうしたものか。ロミオは人見知りの激しい猫だ。私とつれあいにしか馴れず、留守中食事をやりに来た事務所の女性を玄関で威嚇し、中に入れさせなかった。一度ペットショップに預けた時は、迎えに行くと担当の女性は傷だらけの手に繃帯を巻いていた。

 とりあえずわが家へ来ていただくと、

「おー、この目だ、この目だ!」という。

 熱意と人柄に負け、ロミオの写真を画家は撮りまくり、絵は自宅のアトリエで制作することに。

 二カ月近い日が経って、画家から「完成しました」という電話をもらった時にはロミオはこの世に居なかった……。

 画家の来訪から一月近く経った頃。夕刻、帰宅したつれあいが「ロミオは?」という。部屋の隅々、衣裳部屋の奥に潜んででもいるのか。

 ヴェランダとの間のドアが開いている。時々外の空気が吸いたくなると、両手で上手に開けて、鉄柵の細い空間を器用にひょいひょい歩く。そのしなやかさ、器用さに見とれて安心していた。万一落ちたとしてもマンションの四階だから怪我ぐらいですむだろうと。

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