「区役所に行けばすぐ発行してもらえますから」

「いや、海外に住んでいて、今も現住所は海外なので住民票はないんです。代わりに、たとえば戸籍謄本ならありますがそれで構いませんか?」

「戸籍じゃなくて住民票でいいんですよ、マイナンバーカードがあればコンビニでも発行できますので」

「ですから……」

 何回かやりとりを重ね、住民票が今バッグに入っているか否かという問題ではなく、そもそも住民票が存在しないことを理解してもらえました。それでもBさんは言い張ります。「では、今滞在しているホテルの住所で住民登録して、とりあえず住民票を発行するのはどうですか」。これから引っ越す、言い換えれば転出届を出すとわかっていてとりあえずの住民票を発行? おかしくない? 念のため区役所に問い合わせましたが、同区内の引っ越しでないなら給付金やサービスを重複して受け取ることにもなりかねないし、避けてほしいとのことでした。結局住民票なしで契約を結びましたが、Bさんの様子はまるで幻のお宝ジューミンヒョーを探し求めるハンターのようで、住民票という言葉が何を指すのか、何のために賃貸契約に住民票が必要なのか、あまり考えずに言葉を発しているんだろうなと思ったものです。言葉がその意味を失い、形式だけになっている状態でした。

 日本では、言葉が意味を失っている状態によく遭遇します。たとえばスーパーに入ったとき、「いらっしゃいませ~!」と店員さんが言うので「こんにちは」と挨拶を返す。あるいは「新商品が入荷しております~、ぜひお試しください~」と言うので「結構です」と答える。店員さんに、まるで幽霊を見るかのような不気味な顔をされてようやく思い出します。そうだ、日本語の「いらっしゃいませ」は特定の客に向けた意味ある言葉ではない、ただの形式的な掛け声だから返事をすることは想定されていないんだ、と。

 アメリカでは、店員さんに「How’re you doing?(ご機嫌いかが?≒こんにちは)」や「How can I help you?(ご要件は?≒いらっしゃいませ)」と尋ねられたら、必ず返事をすることになっています。これらも形式的な質問で、決して込み入った答えは想定されていないのですが、それでも「Doing good.」なり「No, thanks.」なり何かしら返事をしないと、気味悪がられるほどではなくとも怪訝な顔はされるはずです。疑問文には、答えを返す。日本語と比べたら、英語は言葉が言葉通り機能していると感じます。

 本帰国から1年半経った今、私の日本語もだいぶこなれてきました。最近は、「返事はいつ来ますか?」を知りたかったらこうすればいいのだという言葉の使い方もわかってきました。コツは、言葉を使わないことです。つまり、

「それで……返事というのは……いつ頃……?」

 のように語尾を濁すと、この人ははっきり口に出しては聞きにくいことを知りたいんだな、と相手に察してもらえ、具体的な答えが返ってくる確率が高まるのです。日本語って、言葉そのものは空洞で、その回りをぐるぐる回りながら意味を探り合う、まるでドーナツのような言語だなと思います。海外在住者にとっては、まったく甘くないドーナツなのですが。

〇大井美紗子(おおい・みさこ)
ライター・翻訳業。1986年長野県生まれ。大阪大学文学部英米文学・英語学専攻卒業後、書籍編集者を経てフリーに。アメリカで約5年暮らし、最近、日本に帰国。娘、息子、夫と東京在住。ツイッター:@misakohi

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