ジャーナリストの田原総一朗氏は、連合赤軍事件を振り返りながら、タブー視されるようになった若者の政治議論について言及する。
* * *
このたび、上毛新聞から連合赤軍事件についての取材を受けた。連合赤軍事件が起きてから50年になるからである。
1982年6月18日、東京地方裁判所は連合赤軍事件における主犯の永田洋子、坂口弘、植垣康博に対する一審判決を下した。永田と坂口は死刑で、植垣は懲役20年であった。森恒夫という男が、永田とともに連合赤軍の最高幹部であったが、森は逮捕後の73年1月1日に、東京拘置所の独房で首をつって自殺した。
2002年7月、私は「田原総一朗の戦後史を辿(たど)る旅 全共闘運動とは何だったのか」というドキュメンタリー番組のキャスターを務めた。この番組に、懲役20年の刑期を終えて出所していた植垣に出演してもらった。
番組の中で植垣は、責任逃れの言葉は一切口にせず、彼らが行った“総括”の経緯を誠実に語った。
私はこの生真面目な元連合赤軍メンバーに少なからず好感を抱き、スタッフに頼んで連合赤軍事件の資料を大量にかき集めてもらった。
そして、連合赤軍のメンバーが全共闘、つまり学生運動の中で最もラジカルで、最も生真面目で、理念に最も忠実であった人間たちであることを感じ取った。だが、そんな人間たちが、なぜ自分たちの同志を12人も殺したのか。しかも44日間という短期間に、である。
赤軍派の幹部である塩見孝也は、全共闘運動が行き詰まって閉塞感(へいそくかん)が強まり、とても革命など起こせる状況にない、時機など待っていてもいつまでたっても来やしない、革命の状況を積極的につくらねばならない、と強調した。強引に革命をやってしまうというわけだ。
だが、警察の徹底したアパートローラー作戦によって、活動家たちは次々に逮捕され、彼らは山にこもることを決断、山岳ベースで軍事訓練をすることになったのだ。