世の中なんでもデータ化されすぎじゃないか。政府が検討をすすめる巨大IT企業への規制について、反対する声が意外と少ないのは、そうした漠然とした不安と反発があるからではないか。データ化とグローバル化の果てにあるのが、均質で薄っぺらな世界だとしたらつまらない。

 超難解な郡司ペギオ幸夫の『天然知能』が売れているのも、根底には同じような気分があるからではないかと思う。

 超難解と書いたけど、読むのは簡単。言葉は平易だし例もふんだん、図解もある。ところが理解するのは難しい。でも、これまでの著者の本でいちばん易しいんじゃないか。
 人工知能と自然知能と天然知能があると著者はいう。

<決して見ることも、聞くこともできず、全く予想できないにもかかわらず、その存在を感じ、出現したら受け止めねばならない、徹底した外部。そういった徹底した外部から何かやってくるものを待ち、その外部となんとか生きる存在、それこそが天然知能なのです>

 サボテンやイワシやシジミやライオンの話を持ち出しながら、天然知能とは何なのかを語るのだが、ぼくの知能では理解できない。

 ぼくなりに「たとえ」を考えた。旅をするとき、GPSなどを使ったナビゲーションシステム(スマホの地図アプリも含む)に頼るのが人工知能による旅。アナログな地図を見て目的地を探すのが自然知能の旅。で、天然知能の旅はというと、勘で歩く。

「あっちのほうに美味い店がありそうな気がする」と、はじめての町の路地裏に迷い込む。あのドキドキする感覚を大事にしようということかな?

週刊朝日  2019年4月19日号