4月20日より二十四節気の穀雨の初候「葭始生(あしはじめてしょうず)」となりました。「葭」は川べりや沼べりなどの低湿地に群生する葦(あし・よし)のこと。葦が芽を吹き始めるといった意味です。
水辺にも緑が芽生えて春は盛りを迎え、夏への準備がはじまります。ちなみに葭始生は略本暦でのみで、元となる中国の宣明暦では「萍始生(うきくさはじめてしょうず)」。水辺の変化を表しつつも中国では葦ではなく「浮き草」になり、日中で異なる時候の一つです。日本の土地・風土にとって葦が重要な植物だったからこそでしょう。

青空に咲くアシの花
青空に咲くアシの花
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日本はかつて「葦原の国」だった

葦(芦・蘆・葭)は、イネ科の多年草。水辺でもっとも大きい草本植物の一つで草丈は1~4メートル、大きなものだと5メートルにも成長します。水辺や川辺また海べりなど汽水域でもよく生え、湖沼や河口などでは群生して、いわゆる「葦の原」を形成します。
茎の中は空洞になっていて、9月から10月頃にかけてふさふさとした花穂を出します。ピンとこない人でも、夏に窓辺につるす葦簀(よしず)の原料といえば思い浮かぶのではないでしょうか。
日本書紀・神代巻や古事記などでは日本を古名で「葦原中国」(あしはらなかつくに・美称して豊葦原中国)と称されたとされ、略して葦原国、また身も蓋もなくただ葦原とも。まさに古代の日本は、「葦ばかりが生い茂る土地」であったようです。
狭い国土に急峻な山岳がひだをなす島国の地形で、葦原は海と山との間の緩衝となり、雨水や土砂の流出をせき止め、多くの生物のすみかともなり、また長い期間の間に人間の住める平野を形成していったのでしょう。
百人一首では
難波(なには)江の 芦のかりねの ひとよゆゑ
みをつくしてや 恋ひわたるべき (皇嘉門院別当)
難波(なには)潟 みじかき芦の ふしの間も
逢はでこの世を 過ぐしてよとや (伊勢)
何と二種も詠まれています。
世界のさまざまな民話やことわざにも登場し、旧約聖書には生まれたばかりのモーセが川に葦舟で流された、との記述があったり、エジプトでは、死後に行くあの世は一面の葦の原である、とイメージされていたようです。また日本神話でもイザナギ(伊耶那岐命)とイザナミ(伊耶那美命)との間に生まれた最初の神ヒルコ(水蛭子、蛭子神、蛭子命)は、葦舟に乗せられて海に流されてしまうという逸話があります。葦舟は丸木舟とともにもっとも原始的な舟の一種であり、現代でも南米ペルーではCABALLITO DE TOTORA(カバジート・デ・トトラ)という葦舟の一種による漁が行なわれています。

水辺のアシの群生
水辺のアシの群生

「人間は考える『よし』である」? あし・よし俗説の出所は?

ところで、葦には「あし」と「よし」、訓読みがふたつあり、この二つは違う植物なの? 同じなの? という疑問をよく耳にします。結論から言えばこれは基本的に同じもので、同列の一般名が二つあるということです。ではなぜ二つ呼び名があるのでしょうか。
これはもとは「あし」だったのだが、「あしは悪しに通ず」ということで「忌み言葉」として嫌われ、「よし」=良しになったのだ、という俗説があります。そして「よし」と呼ぶのは主に関西で、関東ではあしと呼ぶ、とも言われていて、さまざまな文献や辞書にも記載されています。でもちょっと待ってください。
実際のところ関東でも夏に日よけにするよしずは「あしず」ではありませんし、江戸の昔から色町として名をはせる吉原は、その地は広大な葦の原で葭原(よしはら)と呼ばれていて、これをゲンのいい「吉」に変えて「吉原」としたといわれます。やはり「よしわら」ですよね。また関西兵庫県の芦屋市は、「あしや」です。これらを見ると、よく言われる俗説とは逆ですよね。「なには(難波)ではあし(葦)とのみいひ、あづま(東)のかたには、よしといふ」とはっきり書かれているものもあり、むしろ東日本ではヨシ、西日本ではアシであったとするほうが正しいのではないか、思われる例に行き当たります。西=よし、東=あし、という俗説は極めて疑わしいといわざるを得ません。
加えて、もし「アシ」=悪しということで名前を変更された、というのなら、人体の一部であり、もっと日常的に使われる言葉である「足」は、どうして「あし」のままだったのでしょうか。もちろん「足」も、人体の中で汚い部分だから「悪し」からきている、という説があり(頭から遠い体の端の部分だから「はし」から「あし」になったという説もあります)ますが、足が「あし」のまま残り「よし」になることはなかったのに、どうして葦だけが呼び名を変えられた、というのでしょうか。
大島弓子の漫画「パスカルの群」(1978年)には、冒頭にこんな台詞があります。
「日本においては 人々は葦を『悪し』に通じるのを忌んで『善し』と呼ぶようになる ではなぜ『人間は考えるヨシである』と呼ばないのだろうか」
実際、本当に葦は「悪し」に通じるからと忌み言葉として「ヨシ」に変更されたのでしょうか。そもそも「忌み言葉」とは何でしょう。

あしず、とは言いません
あしず、とは言いません

忌み言葉-言霊信仰と駄洒落の境界

「忌み言葉」とは、災いの降りかかるのを恐れて口にしない言葉のこと。また、その避けた言葉のかわりに用いる代用語も忌み言葉です。
『皇太神宮儀式帳』(804)に記された斎宮忌詞(さいくういみことば)では、斎宮(伊勢神宮の神官)が神慮をはばかり、異教である仏教関係や不浄語を使わずに言葉を置き換えたり逆の内容にしたり(たとえば坊主・僧侶を「髪長」と称したり)しました。また、杣人や猟師・漁師が、山の神、海の神にはばかったり、事故にあうことおそれて言い換えたり控えたりする場合にも忌み言葉が使われました。
たとえばサルをきむらとかエテ、をくろげといったりしたそうです。侍の武者ことば由来では、正月の「鏡開き」という言葉も忌み言葉の一種。刃物で切ると切腹を連想させるので木鎚で割り、さらに「割る」という言葉も避けて「開く」という言葉を使いました。
現代でも、結婚披露宴で「切れる」「別れる」などの言葉を避けたり、受験生のいる家庭で「落ちる」「すべる」という言葉を避けたりしますよね。
これらの忌み言葉の起源には言霊(ことだま)思想にあります。言葉をただの情報伝達の道具ではなく、事物の実体と一体化したものと考えます。よくない言葉を口にするとよくないことが実際に起きてしまう、と考えるわけです。
そこで不吉な言葉を口にするのを避け、別の語で婉曲に表現して災難から逃れようとした(している)のですね。
もとは忌み言葉は宗教的な意味合いが強かったのですが、時代が下るにつれて庶民文化と結びついて俗っぽいものとなり、江戸時代の頃には特に賭博などにいそしむ渡世人が使う柄の悪い言葉に代わっていました。
典型的なのはスルメの「スル」が「金をする」につながると、縁起をかついで「アタリメ」に言い換えられた、という類。ご存知の人も多いでしょう。
また魚の河豚(ふぐ)は「フグ」は不遇につながるので「ふく(福)」と呼びならわすなどは、今でも河豚の本場の人たちの間では使われている忌み言葉ですよね。
梨を「ない」につながるのでゲンが悪いから「有りの実」とか、もとは「亀梨」という地名がゲンが悪いと「亀有」に変更されたのも江戸時代。江戸時代、江戸文化というのは駄洒落や語呂合わせ、縁起かつぎが大流行して発展した時代。こうして、忌み言葉がゲンかつぎや語呂合わせ、果ては駄洒落の符丁になっていくにつれて、元からあった無関係な言葉も、語呂合わせの解釈でこじつけられるようになる、ということもあったのではないでしょうか。
「アシ」と「ヨシ」、二つの呼び名があった葦も、駄洒落が好きな人が良し悪しに通ずると面白がり、「実はね…」とありもしない由縁を広め始めたのではないでしょうか。ヨシアシ忌み言葉説の出典として筆者が知るのは、唯一落語の「鹿政談」の中のまくらでです。
ここではさまざまな忌み言葉を紹介し、「最近ではスリッパもアタリッパという」などと冗談をかましたあとに、「浪速の葦(あし)は悪し-悪いという意味になるので、あれをよしと言い換えますなぁ。bad が good になるわけです」と続きます。
「鹿政談」も江戸時代に出来、まくらはそれを引き継ぐ形で明治から現代にかけて作られたものですよね。
ですから、西と東で呼び方が違う、などという俗説は根拠のないもので、全国で特に呼び方の差異は(方言として伊勢地方では「ハマオギ」と呼んだりします)ないし忌み言葉でもない、というのが筆者の考えです。
ただ、ヨシとアシの呼び名の内容にちがいがないかというとそうでもなくて、葦原のような群生については「あしはら」とも「よしはら」とも呼ぶが、どちらかというとアシという場合が多く、地名としては「あし」と読む場合が多くなる。単体でもそのままならアシともヨシとも言うが、どちらかというとヨシと呼ぶ。加工品になると「ヨシ」になり、アシとは言わない、という傾向はあるように思います。
葦業者の間では、器具材などとして有用な葦を「ヨシ(良し)」と呼んだ、という話もありますから、もとからある「アシ」という名から選別するための俗語として「ヨシ」という言葉が出来たのがもとで、それが一般に広まるとともに、先述したような思いつきの縁起が語られるようになったのが真相ではないでしょうか。人間にとってよかろうと悪かろうと、多くの生物が生息しており、とりわけ鳥や川魚たちにとっては安息の楽園です。春に生まれて巣立ちをした若いツバメたちは、渡りの期間までの夏から秋、好んで葦の原をねぐらとします。
カッカッカッという鳴き声が印象的なヨシキリや、しきりと葦の葉が揺らぐまねをして擬態してるが、ほとんど擬態になっていないのがかわいいと評判のサギの仲間、ヨシゴイにとっては唯一無二の住処。また水中の茎はコイやフナなどの産卵場所として、水生昆虫の生息域として、多種多様な生き物たちの貴重な揺籃としての役割を持っているのです。
そればかりではありません。葦は大型で群生するので、より多くの二酸化炭素吸収・酸素生成が可能で、温暖化の抑制にも寄与するばかりか、土中・水中から多くの窒素やリンなどを吸いあげ、水の富栄養化も改善し、水質浄化し、また、上流からの土砂の流出をとどめて流れをゆるやかにし、陸地と海との緩衝地として、人間にとってもなくてはならない貴重な植物。
現在、開発などで広大な葦原がどんどんなくなっていっています。太古の時代からの葦原国として、由々しきことではないでしょうか。