つまりは、セクシュアルマイノリティーカルチャーのアイコンとして、サブカルチャーのアイコンとしてのガガを使ったわかりやすい宣言だ。こんなふうに安易なレディー・ガガ使いをしてしまってよいのだろうかと驚き、一瞬本気で「レディー・ガガのパロディー? レディー・ガガのそっくりさん? 口パク?」と私は混乱した。
セーヌ川沿いで80人のダンサーが踊ったフレンチカンカンにも、ちょっと驚いた。これも二丁目感が強いでしょう。フレンチカンカンを真面目に語れば、性搾取されてきた女性史という面から、「伝統」「華やか」というだけでは語れない「踊り子の物語」の暗さや重さもある。はっきり言えば、時と場所を選ぶショーだと思う。
日本に置きかえれば、10代からの修業が問題となった舞妓さんの踊りや、昔の吉原花魁道中などを「歴史」「芸術」という点だけで東京五輪の開会式で見せるのと何が違うだろう。
二丁目の文脈ならば、「パロディー」として楽しめるパフォーマンスであるという留保付きで、これがパリ五輪オープニングのショーなのか……と私は驚いた。
そしてマリー・アントワネットはちょっとショックであった。パンキーでかっこいいという評価もあるが、斬首された首を持つ「外国人の女」の横にルイ16世おいてよ!とやっぱり思ってしまう。マリー・アントワネットが幽閉された場所での演出とはいえ、赤いドレス(王妃っぽい)と黒いドレス(これは誰?)の女性が自分の首を持つ姿に、フランス人にとってのフランス革命とは、象徴として女の首であったのか……という現実を目の当たりにし、そういう意味では『ベルばら』で育った日本に暮らす私たちのほうが、マリー・アントワネットへの理解があるのではないかと考えてしまったりと、複雑な思いになる。
女の首を晒して自由を吠えるマッチョな過激さに、「日本にはできないこと、凄い」というよりは、「日本でやらなくてもいいよ、これ」みたいな気持ちに、私はなった。