下北沢駅前の様子(撮影/写真映像部・佐藤創紀)
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 サブカルの街、若者の街、音楽の街……。様々な魅力を包括した街として、多くの人を引き付けてきた東京・下北沢だが、古くからの住民も多い住宅地でもある。2022年5月には線路跡地を開発して新しい街「下北線路街」が誕生。完成するまでには住民のシモキタらしさをなくさないための取り組みがあった。AERA 2023年11月13日号より。

【写真】一目見て緑が多い!下北沢駅付近から世田谷代田駅側を見た下北線路街

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 実は、下北沢再開発の前日譚は果てしなく長い。始まりは東京五輪に日本中が沸いた1964年。この年の年末、小田急線代々木上原駅から喜多見駅間を高架にし、上下線2線ずつに複々線化する事業が東京都により都市計画決定される。69年には線路を高架化して踏切をなくす「連続立体交差事業」が国によって制度化され、計画推進に弾みがついた。ただ、高架で複々線化する場合沿線の立ち退きが必要になるほか、騒音などへの懸念が強い。70年に事業見直しを求める署名約3万5千筆が区議会に提出されるなど反対運動が広がり、90年代には裁判にまで発展した。こうした動きを受けて2003年、都は東北沢から世田谷代田間を地下化する新たな都市計画を決定した。当初計画から既に40年近くがたっていた。

 だが、地下化決定と同時に新たな懸案が降りかかる。長く休眠状態だった道路計画が再びうごめきだしたのだ。戦後すぐに原形が計画された下北沢駅の北側を東西に貫く「都市計画道路補助第54号線」、そして平成期に入って計画された、下北沢駅前の交通広場と広場から補助第54号線に接続する街路からなる「世田谷区画街路第10号線」を、線路地下化と併せて整備する。商店街の多くの店が立ち退きを余儀なくされる計画だった。さらに、区は規制緩和で大規模な再開発を可能とする地区計画を決めた。

 反対の先頭に立ったのが矯正歯科医で、ロックバー「Never Never Land」を営む下平憲治さんだ。下平さんらは住民団体「Save the 下北沢」を設立、反対運動を続けた。

「新たな道路は街を物理的に分断します。下北沢は歩き回れることが魅力の街なのに、それができなくなってしまう。それに、道路ができると次に起こるのは土地の集約化、高層化です。そんな通り一遍な街にはしたくありませんでした」

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川口穣

川口穣

ノンフィクションライター、AERA記者。著書『防災アプリ特務機関NERV 最強の災害情報インフラをつくったホワイトハッカーの10年』(平凡社)で第21回新潮ドキュメント賞候補。宮城県石巻市の災害公営住宅向け無料情報紙「石巻復興きずな新聞」副編集長も務める。

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