大隅 近年の生命科学の世界に強烈なインパクトを与えたものとしては、先ほどの次世代シークエンサーのほか、PCR(ポリメラーゼ・チェーン・リアクション)とCRISPR-Cas9(クリスパー・キャスナイン)、iPS細胞が挙げられます。

 PCRは、コロナで一般の人も知るところになりましたが、そのために開発されたものではもちろんありません。生物や医学をはじめとするさまざまな分野で、遺伝子解析の基礎となっている技術で、開発者のキャリー・マリス博士は1993年にノーベル化学賞を受賞しています。わずかなDNAを短期間で大量に増幅させることができるそのテクニックによって、病気の迅速診断が可能となったり、遺伝子の異常を発見できたり、農作物へ応用したりなど、生命科学は一変しました。

東北大学副学長で、脳や神経の発生を研究する大隅典子教授と、『パラサイト・イヴ』などのSF小説をはじめ、科学を題材に執筆する作家の瀬名秀明さん
東北大学副学長で、脳や神経の発生を研究する大隅典子教授と、『パラサイト・イヴ』などのSF小説をはじめ、科学を題材に執筆する作家の瀬名秀明さん

 CRISPR-Cas9は、画期的なゲノム編集の技術で、エマニュエル・シャルパンティエ博士とジェニファー・ダウドナ博士が2020年にノーベル化学賞を受賞しました。ゲノム編集の第三世代に当たるCRISPR-Cas9の技術は、それまでと比べ物にならないくらい正確なものでした。狙った位置で、望みの改編を高確率で行えるのです。この技術によってゲノム編集に関する研究が一気に加速し、医療や生命科学だけでなく、農業、畜産業、漁業をはじめ、化学産業など広い範囲に大きな社会的なインパクトを与えています。

 iPS細胞は、人工的に作られた多能性の幹細胞のことです。京都大学の山中伸弥教授のチームが作製に成功し、2012年、ノーベル生理学・医学賞を受賞しました。iPS細胞は、一般の方には、臓器をカスタムメイドできるという応用面で知られていますが、生命科学界で最も有用なのは、成熟した細胞を多能性を持つ状態に初期化するという基礎的なメカニズムの部分なんです。実際、臓器をカスタムメイドしようとすると、iPS細胞では手間がかかりすぎるので、ES細胞などを使ったほうが効率がいいのです。iPS細胞はむしろ、臓器細胞に分化させて薬の効能をチェックするとか、ミニ脳を作るとか、研究材料として使える点がものすごいインパクトなのです。例えば、自閉スペクトラム症の人の脳は、そうではない人とどう違うのかという研究をする場合、胎児の脳そのものを扱うのは倫理的に難しいですよね。そこで自閉症の方からいただいた細胞を初期化してiPS細胞にして、ミニ脳を培養皿の中で作って比べてみるとか。そんなことも可能になるんです。ちなみに、Pax6は自閉症にも影響を及ぼしているんですよ。

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夢物語が現実になるとき、浮き彫りになる課題