ヴィリニュス  夜明けの門のチャペル。16世紀、敵の攻撃から街を護り旅行者を祝福するために、門には宗教的なモニュメントが造られた。ここには奇跡を起こす聖母マリアのイコンがあり、リトアニア国内だけでなくポーランドからも巡礼者が訪れる。日曜日の今日はミサが行われていて、通りがかりの人たちも窓の下で祈りを捧げていた
ヴィリニュス  夜明けの門のチャペル。16世紀、敵の攻撃から街を護り旅行者を祝福するために、門には宗教的なモニュメントが造られた。ここには奇跡を起こす聖母マリアのイコンがあり、リトアニア国内だけでなくポーランドからも巡礼者が訪れる。日曜日の今日はミサが行われていて、通りがかりの人たちも窓の下で祈りを捧げていた
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ヴィリニュス  大量虐殺犠牲者博物館。この博物館の建物は、ソ連時代にソ連国家保安委員会(KGB)つまり秘密警察だった。地下には当時実際に使われていた牢屋、拷問部屋、処刑部屋がそのまま残されていて見学できる
ヴィリニュス  大量虐殺犠牲者博物館。この博物館の建物は、ソ連時代にソ連国家保安委員会(KGB)つまり秘密警察だった。地下には当時実際に使われていた牢屋、拷問部屋、処刑部屋がそのまま残されていて見学できる
ヴィリニュス  「人は箱か?」展。人は社会通念や型や偏見にはめられなければならない市民なのか、といったことを考えさせる展示が、旧市街の壁を使って行われていた。作品は、様々な市民の写真だった
ヴィリニュス  「人は箱か?」展。人は社会通念や型や偏見にはめられなければならない市民なのか、といったことを考えさせる展示が、旧市街の壁を使って行われていた。作品は、様々な市民の写真だった

 昨夏、ロシア、ウクライナ、バルト三国を周遊中にリトアニアに立ち寄った。ここは、第二次世界大戦中、杉原千畝という日本人外交官が、当時ヨーロッパで迫害されていたユダヤ人などに人道的見地からビザを発行して、避難するのを助けた国だ。ガイドブックを読むと、首都ヴィリニュスには、他のバルト三国の首都と同じように世界遺産に指定された美しい旧市街が残されている一方、ユダヤ人の国立ユダヤ博物館ホロコースト展示館や旧KGBの建物を利用したリトアニア人大量虐殺犠牲者博物館などがあるという。日本で普通に暮らしている限りは到底思い至らない残忍な歴史の展示で、ガイドブックを読んだだけでも恐ろしさにどきどきしてしまった。しかし、そのような集団による暴力について知っておく必要があると思い、ヴィリニュスの町を散策するときに、それらの博物館も訪れることにした。

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 宿泊している住宅街にあるホステルを出て、昔は城壁に囲まれていた旧市街へ向かった。今でも唯一残っている歴史的な門をくぐると、その門の上の部分が礼拝堂になっていて、大きな聖母マリアのイコンに人々が祈りを捧げている。そこから旧市街の中へと歩いていくと、中世の北部ドイツの質実な趣が感じられる他のバルト三国の首都とは異なり、ヨーロッパ近世風の華やかな美しい町並に様々な建築様式の建物が続いている。そして、約1キロ四方の小さな市街にもかかわらず、カトリック教会、ロシア正教教会、アルメニア教会、東方カトリック教会、イエズス会教会など、様々な宗派の教会が数多く点在していて、日曜日の今日はそれぞれに礼拝が行われている。北端に抜けると大きな広場に至り、そこには鐘楼とともに、ギリシャ神殿風の立派なカテドラルが、堂々と白く輝いて立っていた。

 そこから少し西に歩いたところに、国立ユダヤ博物館ホロコースト展示館があった。背の高い木立に囲まれた緑色の木造の一軒家で、静かな佇まいは博物館には見えず、緑色に塗られていなかったら見過ごしてしまうところだった。入館して受付で記帳し展示室に入ると、リトアニアにおけるユダヤ人コミュニティーの誕生に始まり、第二次世界大戦のホロコーストで、それまでリトアニア全土にいた22万人のユダヤ人の殆どが消滅するに至るまでが、様々な資料で解説されていた。特にホロコーストが実施された経緯が、年次ごとに、その当時の写真や日記や手紙を用いた体験者の語りを中心にまとめられていて、生き残った人々の証言を集めた映像とともに、彼らの実体験を通してホロコーストを理解することができた。

 大量虐殺犠牲者博物館も、その近くにあった。ここでは、第二次世界大戦からソ連時代にかけて、ユダヤ人だけでなくリトアニア人たちがどのように収容、追放、虐殺され、またそれに対抗して森の中に潜みどのように抵抗したかが、当時の写真や日用品や銃器などの展示によって克明に解説されていた。19世紀末に司法裁判所として建てられた立派な博物館の建物は、実は大戦中はゲシュタポの本部や牢屋として、大戦後のソ連時代は秘密警察や牢獄として利用されてきた。そのため、ソ連の秘密警察を詳しく解説した組織表や制服、そして迫害の指示や実行に関する文書などのコーナーがあり、地下には、当時使われていた牢屋や拷問室や死刑執行室などがそのまま残されていて展覧できるようになっていた。また、建物の入り口に至る外壁に沿うように、地元の子供たちがそれぞれに描いた虐殺のイメージが貼り出されていた。

 丁寧に見学したのでそれぞれ2時間ほどかかり、見終わった頃には夕方になっていて心身ともにすっかり疲れてしまった。夏の今の時期は日没が10時なのでまだまだ陽は高いが、とにかく一息つこうと思い、一旦宿へ戻ることにした。私の宿があるところはウズピスという旧市街の東にある小さなエリアで、住宅街ではあるが、ボヘミアンな雰囲気のする独特な地区だった。1997年に共和国宣言をし、独自の大統領、旗、閣僚を制定し憲法まで作ってしまい、ある通りには、「誰もが冬の間はお湯と暖房、そして瓦屋根を有する権利を持つ」、「は飼い主を愛する義務はないが、必要なときは助けなければならない」といった条文が、リトアニア語だけでなく各国語でも書かれて貼り出されている。

 川を渡ってウズピスに入り、ラッパを高らかに吹く天使の像の周りのカフェで思い思いに寛ぐ人々の自由な様子を見てほっとしながら宿に戻ったところで、その日の展示を思い返してみた。とにかく、この二つの博物館には大変な衝撃を受けた。どちらにも共通することだが、ある特定の集団を狙い、彼らが下等な存在なので抹殺すべきだという理解し難い考えを持つ人々がいたということに恐怖を覚えた。そして、その実現のための虐殺が周到に計画され、実行機関が組織され、システマチックに遂行されたことを知って、戦慄が走った。実際に迫害に使用された狭く汚い部屋を思い出すと、今でもそこに監禁されていた人々の苦しみや怨嗟(えんさ)が立ち上がってくるようで身の毛がよだった。それまでに、ホロコーストや大量虐殺があったということは知っていたし、迫害された人たちには大変同情していたが、本やテレビでしか見ていなかったので、どこか物語のようでもあった。今回、それらの実行に関わる書類などの実物を読み、また殺害に使用された部屋を見学しながら、そこに監禁されていたリトアニア人とともに監視役として勤務していた人たちの存在をも実感して、虐殺という行為の一端を体験したように感じた。私の身の回りにこのような陰惨なことが起こるとは到底想像できないが、同じ人間として無関心ではおられないこの歴史をどう受け止めて伝えられるかと、考え込んでしまった。

 陽が暮れるまでに時間があるので、夕食の惣菜を買いに外に出た。スーパーへ行く途中の旧市街のある通りに、所々漆喰が取れてその下に積まれたレンガが剥き出し放棄されたようにみえる塀があり、顔が大きく写し出されたポスター大の白黒人物写真が、横一列に十数点並んで貼られていた。近づいて解説を読むと、それは「人は箱か?」というタイトルの現代アート作品で、人々は世間の通念や偏見にあてはまらなければ、ホームレスや外人といったラベルの箱に一括りに入れられ、通常の生活を脅かさないように追いやられるだけの存在なのか?と問い、服装や地位などは一時的なもので私たちはそれぞれに個性を持ち、変わることができると励ますような展示だった。この展示と今日見てきた博物館の展示は、扱う時代や人種は違うものの、自分たちと異なるものを異端視し、ラベルを貼って一括りにして排除する点を問うところは共通していると感じた。そして意外にも、そういった迫害に至る小さな差別の芽は、今でも私たちの普段の心の中にもあるのではないかと思った。私たちはそれぞれ違うのは当然で、多少の区別や、異なる習慣に文句を言うこともあるだろう。しかし、世界がますます小さくなって多種多様な人々と共存していかなければならない現代こそ、差異に囚われてお互いを排斥し、遂には悲惨な戦争を引き起こさぬよう、それぞれを活かしながら共に暮らす方法を考えていくのが人間として生きる道なのではないか。買い物から戻りウズピスの天使の像を見上げて、やはりそうだと思った。