経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
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「エンライトンド・キャピタリズム」(enlightened capitalism)という表現に出合った。10月2日付の英紙、フィナンシャル・タイムズへの寄稿論文の中でのことだ。面白い言い方だ。さて、この言葉をどう翻訳するか。エンライトンとは、すなわち明るくすることだ。エンライトンメントと言えば、啓蒙思想に通じる。だから、「啓蒙資本主義」という訳し方があるだろう。もっと平たくいけば、「開眼資本主義」とか「悟りを得た資本主義」などと言いたくなる。「解脱資本主義」もいいかもしれない。
この8月、アメリカの「ビジネス・ラウンドテーブル」という経営者の団体が、脱株主至上主義を宣言した。我々は、もはや、株主だけの言いなりにはならない。消費者や市民社会の主張に耳を傾け、環境を大切にする。社会的責任を意識した経営に励む。そのように高らかに声を上げた。いうならば、みずから「解脱宣言」したわけである。
この宣言が、様々な論評を呼んでいる。冒頭で紹介した論文もその一つだ。どうせパフォーマンスに過ぎないという眉唾診断はかなり多い。一方で、真剣な全否定の声も上がっている。企業経営から株主至上で利益至上の構えを取り去ってはならない。企業は儲けるために存在する。企業は収益を上げることによってこそ、社会に貢献できる。それだけでいい。この手の主張も声高い。
正直言って、なぜ、こんなことが論争の種になるのかと思う。企業は人間集団だ。人間集団である以上、様々な他者の存在を意識し、その命運に思いを馳せるのが当たり前だ。他者の痛みが分からない者は人間ではない。企業が人間集団である以上、啓蒙的で、開眼できていて、悟りを得ていて、解脱していて当然だ。企業経営者になるというのは、人間であることを捨てることなのか。自らの人間性を否定することなのか。
ひょっとしてそうなのかもしれない。今、そう思わせる経営者たちの顔が脳裏に浮かんでしまった。資本主義を解脱させるためには何が必要か。ビジネス・ラウンドテーブルの面々は、どこまで本気でそれを追求していくつもりなのだろう。厳しく監視していくべし。
※AERA 2019年10月21日号