あのとき、別の選択をしていたら──。著名人に人生の岐路を振り返ってもらう「もう一つの自分史」。今回は俳優の宍戸錠さんです。石原裕次郎さんや小林旭さんらと日活アクション映画の黄金時代を築きました。誇りをもって自らを「B級俳優」と呼ぶ宍戸さん。個性派スターの生き様に迫りました。
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「B級俳優」としてのこだわりとか哲学とか、そういう難しい話があるわけじゃない。
「A級」は、何もしなくてもドンと構えていればスターになれる。兄の石原慎太郎に連れられて、チャンユー(石原裕次郎)が初めて撮影所にやってきたときに、こいつはスターになるなってひと目見て確信したね。足は長いし、立ってるだけでオーラがある。
だけど「B級」はそうじゃない。何としても「A級」になってやるという気持ちが必要だ。そのためには、整形のひとつやふたつどうってことない。
主役もやったけど、だからって「オレはA級俳優なんだ」ってふんぞり返る気はなかった。「B級」としてあれこれやり続けてきたから、この仕事を楽しめたんだ。だから、その言い方が好きなんだろうな。
「俳優」は、人に非ず、人を憂えると書く。世の中に求められる役を演じて、人間のいろんな面を表現していく。それが俳優の仕事なんだ。俺は自分にできることを、せいいっぱいやってきた。ほっぺたをふくらませたりしぼませたりしながらね。
――1933年に大阪で生まれた宍戸。父親が事業に成功したおかげで、幼いころは東京の大邸宅で裕福な生活を送っていた。だが、東京大空襲ですべて焼失。そんな宍戸の俳優人生は、戦後の日活の映画製作再開とともに始まった。54年、新人俳優を募集した第1期日活ニューフェースに合格した。
漠然と俳優になりたいと日芸(日本大学芸術学部)の演劇科に入ったはいいけど、なんか物足りない。仲間と芝居のまねごとみたいなことをしていても、こんなことやってていいのかともどかしい気持ちがあった。
新聞でニューフェースのことを知ったのは、大学2年の冬だった。見た瞬間に、よし受けようと決めた。当時の日活は、製作再開に向け、撮影所もまだ建設中だったんだ。第1期っていうのが、またいいよな。うるさい先輩はいないってことだ。
最終面接っていうのかな、最後に何人かが社長室に集められた。俺は社長に聞いてやったんだ。「この中で誰がいちばんいい」って。そしたら「おまえだ」って言ってたな。いや、それなりに緊張はしてたけど、一発かましておかないとね。