12月10日のノーベル賞授賞式を「先約がある」と、欠席することを発表した、ボブ・ディラン。その真意はどこにあるのか。彼の作品のどんなところがノーベル文学賞にふさわしかったのか。その実像とは。ディランを知る元CBS・ソニー ディレクターの菅野ヘッケルと音楽評論家の北中正和が語り合った。
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──ディランのノーベル文学賞授賞式欠席について。
北中:常にマイペースで動いている人ですから、ノーベル賞だろうが何であろうが、彼は、彼の日常を歩いているだけだと思います。
菅野:賞をもらうこと自体はとてもうれしがる人だとは思うんですよね。映画「ワンダー・ボーイズ」(2000年)でもらったアカデミー歌曲賞。そのときのオスカー像を、ここ数年はハーモニカや水が置いてあるアンプの上に飾っています。
北中:ノーベル賞だから行かない、というのは全然ないと思いますね。アカデミーもグラミーももらっていますから。もともと権威にこだわる人ではないですが、もらえるものはうれしい。そういう人だと思います。
菅野:自分の好きなことはやるけれども、向こうからああしなければいけないとか、フォーマルなパーティーに出てくださいというのは嫌なんですよ。
北中:「こうあってほしい」というような、そういう基準には合わせたくない気持ちを持ってる人なんですよね。
菅野:これまでも、オバマから大統領自由勲章をもらうためにホワイトハウスに行ってるし、他の賞でも授賞式には行ってるんです。場所とタイミングが合えば行ったんじゃないかと思いますが、何かあったんでしょう、「先約」が(笑)。
──ディランの歌詞が文学賞という意義は?
菅野:まあ、物理学賞ではないでしょうね(笑)。
北中:もちろん、化学賞でもない(笑)。
菅野:ボブがやっていることって“言葉”ですから、平和賞じゃないのもよかった。プリント(印刷)でない作品の受賞ということで、ノーベル文学賞の既存の枠を広げた。
北中:受賞の理由にも、紀元前のギリシャのホメロスの時代から延々と続く伝統に基づいた詩とありました。確かに、印刷技術ができる前は、われわれが文学だと思っているものも、口承のパフォーマンスだったりした。一種の先祖返りというか、われわれが「文学」と考えているものは何なんだ、そう考えるいいきっかけをくれた気がするんです。