昨年には「昭和天皇実録」が公開され、今年は戦後70年という節目の時期である。元側近が見た、昭和のあの日の昭和天皇の姿から、昭和天皇の心のひだを感じる。
中村さんは、文部省を経て、文化庁文化財保護部長などを歴任。昭和61(1986)年4月に昭和天皇の侍従となった。当時、52歳。逝去までの3年足らず、昭和天皇の側で仕えた。
「終戦までは大元帥、そして戦後は人間天皇として二つの人生を歩まれた昭和天皇は、心のなかに大戦の傷をつねに抱えておられたのだと思います」
中村さんがそう感じたのは、「おつつしみの日」の姿だったという。
昭和天皇は、毎年7月下旬から9月上旬まで栃木県にある那須の御用邸で静養するのが恒例だった。終戦記念日の8月15日だけ、東京都内で執り行われる全国戦没者追悼式へのご出席のために一時帰京する。那須では天気がよければ侍従がお供をして、キャラバン隊をつくり長時間、植物の調査に行く。しかし、広島、長崎の両原爆の日は、御用邸で一日静かに過ごされていた。
あらたまって黙祷をするわけではない。しかし外出はせず、御用邸の部屋に一日中こもり、生物学の研究や、和歌の推敲をするのだという。
中村さんの記憶に残るのが、昭和62(87)年8月6日の広島原爆の日だ。連日、霧雨が続くなか、この日は久しぶりに薄日が差した。
この日、昭和天皇はたった14分間だけ庭に出た。お供は、中村さんともうひとりの侍従、侍医の3人。そして、陛下の身辺を護衛する側衛官がひとりだけついた。向かったのは、庭の見晴らし台のそばの茂み。岩の脇に数本伸びたヒトツバショウマがあった。