東日本大震災から3年。原発20キロ圏内では遅々として復興が進まない。放置されたがれきや、汚染土の入った土のう。現状をジャーナリストの桐島瞬氏が伝える。
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未曽有(みぞう)の原発事故が発生した当時、取材のために原発20キロ圏内を車で通行するにはそれ相応の覚悟が必要だった。被曝の恐怖もあるが、それ以前に、福島県を南北に貫く国道6号は一部が渓底へ大きく崩れ落ち、県道や市道や至る所に陥落があった。
あれから3年。今ではほとんどの道が修復されたものの、さらに迂回することが増えた。不審者の侵入を防ぐために、主要な交差点をバリケードで封鎖したためだ。住民の一時帰宅などで開放する場所もあるが、それ以外は締め切られ、地域を分断する。さらに原発近くの6号沿いのすべての建物の敷地境界付近には、フェンスが張り巡らされた。例えば、中南米のどんなに治安の悪い地域でも、こんな殺風景な光景は見られない。
もっとも、道は修復されたからまだいい。建物は誰の手も加えられないまま、いまだ痛々しい姿を晒している。屋根が崩れ落ちた民家、ブルーシートで覆われた商店。小学校では、明日授業があるかのように、机には辞書やノートが置かれていた。
半径20キロ圏内を対象とした警戒区域は放射線量によって再編成され、低いほうから「避難指示解除準備区域」「居住制限区域」「帰還困難区域」に分けられた。同じ市町村でも異なる区域がまざり合い、複雑だ。積算線量が年間50ミリシーベルト超となる帰還困難区域は立ち入りが厳しく制限され、人が住める見通しが立たない。約2万5千人に上る住民の長い避難生活は続く。
昨年12月、避難先の栃木県那須塩原市から福島県双葉町の自宅に一時帰宅した山田五郎さん(66)、百合子さん(62)夫妻に同行した。縁側から足を踏み入れると、家具は倒れ、室内灯は傾いたまま。床上の粘着シートには、干からびたネズミがいた。先祖代々伝わる書類を持ち帰ろうと、タンスの引き出しを震災後初めて開けた。黄ばんだ表紙に線量計をかざすと、毎時11マイクロシーベルトを示した。結局、持ち出しは諦めた。第一原発から直線で4.5キロ。周辺の放射線量は高く、空間線量は毎時21マイクロシーベルト、草むらの中は毎時70マイクロシーベルトを超えた。
山田さんは最近、腕や足に見たこともない小さな斑点がいくつもできていることに気づいた。調べると、原発事故当時同居していた妻と娘にもある。ちょうど20キロ圏内の牛にも原因不明の白斑が出ていたという。病院で検査をしたが、原因はわからずじまい。自分と家族の健康は大丈夫なのか。不安がよぎる。
原発事故は広大な国土を汚染し、10万人を超える人たちの生活を一瞬にして奪った。しかも復興までには、この先も長い年月を要する。
どんな災害であれ、そこには多くの悲劇が生まれる。だが、原子力災害ほど爪痕が深いものはない。
※週刊朝日 2014年3月21日号