灘中学校には無事に合格しました。「僕の受験が終われば、平和な家庭が手に入るかな」と漠然と思っていましたが、決してそんなことはなかった。母の父に対する態度は変わらず、耐えきれなくなった僕が「もう、この家を出よう!」と父に言って、父の実家のある京都で二人暮らしを始めることになりました。

――その後、どのような中学生活を送っていたのでしょう。

山﨑 京都から灘中学校のある神戸に通うという中学生活がスタートしましたが、母を通して抱いていた「高学歴の人はモノの見方がおかしい」という考えはすぐに消え失せました。面白い友達が多かったですし、これは結果論になりますが、一生の友達がたくさんできた。そして、何より「先生」が素晴らしかった。

 たとえば、離れて暮らしている母が僕に会おうと突然、中学の校舎にまでやってきても、事情を知る先生たちが「ここは通さない」と言って、バリケードのようなものをつくってくれた。こっそり裏門から逃してくれたこともありました。そんな状況だったので、勉強が手につかず、髪を金色に染め、学校に行かず家でグダグダした日々を送っていた時期もあります。それでも、テスト前のある日、高齢の先生が一人、試験範囲の教材を両手いっぱいに抱え、自宅までやってきてくれたこともありました。

 “校風”という言葉にしてしまうと軽いかもしれないけれど、伝統ある私立の中高一貫校には「何があろうと生徒を守ろう」とする姿勢があるのだな、と。少なくとも僕は、そうした先生たちに守ってもらった。「恩義には背けない」という気持ちから、再び勉強に向かうようになりました。

茂山 僕も、友達の存在は大きかったです。付属の小学校からそのまま中学に進んだ友達もいれば、僕のように中学受験をして入学してきた生徒もいる。そして高校に入れば、異なるタイプの優秀な生徒たちが入ってくる。頭のいい人間もいれば、とにかく個性的な人間もいて、そのごちゃ混ぜな感じに「なんなんだこれは!」と衝撃を受けました。そうした環境がとにかく楽しかった。

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