その日、たまたまミニスカートを穿いていた私は内心胸を撫で下ろしていました。けれども、「主体性のない日本人」とフランス人に片づけられてしまうことに日頃から嫌気がさしていた私は、誤解のないように補足説明をしました。
「日本も働くお母さんがかなり増えているし、意識もだいぶ変わってきているわ。でもね、根本には『いいお母さんでありたい!』っていう、切実な思いがあるんだと思うのよ。だからつい『自分らしさ』より、世間が求める『母親らしさ』に同調してしまうのよ」
「いいお母さん」の前に「幸せなお母さん」に
我ながら言い訳がましいなー、と言葉に詰まっている時、エミリーが助け舟を出してくれました。
「ちゃんとした母親だと思われたい、っていう気持ちは万国共通だと思うわ。私だってそう」
教授のエミリーには外野を黙らせる静かな迫力があります。
「でもね、『いいお母さん』であるためには、『幸せなお母さん』でなければならないと思うの。自分が心地よくなければ、ただでさえ大変な子育て、絶対に務まらないわ」
子育てが大変なのは万国共通。そして母親が一生懸命なのも万国共通です。エミリーは娘にアトピーが発生したばかり。大変な苦労をしています。セリーヌは娘の斜視を矯正中。ジョゼフィーヌは息子の夜泣きが悩みのようです。朝カフェはそんな悩みを分かち合い、不安を解消する貴重な場でもあるのです。
「これが正解」という母親像はない、というのが私の正直な意見です。ないのですから、手探りで見つけるしかありません。その不安に押し潰されそうになった時、私達は「いい母親」を演じたくなってしまいます。「お母さんっぽい格好」をしてみたり、「家にいてあげよう」と思ったりします。周りにも「いいお母さん」だと納得されるのですから、これほど安心なことはありません。でも、それでいいのでしょうか。
エミリーの言う通り、究極のところは、「自分が幸せ」と思えるお母さんが、「いいお母さん」なのかもしれません。自分の軸がしっかりしていなければ、子供の軸をまっすぐに育ててあげることはできないからです。
藤原 淳