日比谷線開業が「追い風」
1964年開業の日比谷線は追い風となった。また、戦後しばらく都内のエリートコースだった千代田区立番長小学校→麹町中学校→日比谷高校→東京大が、「学校群制度」で崩れたことも大きい。麻布の学校史にこう記されている。
「日比谷線は前述のように私鉄二線と相互乗り入れを果たし、神奈川、埼玉から都心部へのアクセスを容易にした。(略)横浜(三八名)および川崎(一八名)からの入学者が一九六〇年代に比べて飛躍的に増加しているのは、このためである。(略)これまでエリートコースの登竜門とされた番町小学校、麹町中学校から麻布に入学する生徒が微増している」(『麻布学園の一00年』1995年)。
1960年代後半から1970年代前半にかけて、麻布は揺れに揺れ動いた。
学校の教育体制をめぐって校内で抗議集会、校長室占拠、ストライキ、授業ボイコットなどが起こっている。麻布のトップだった山内一郎校長代行は、抗議した生徒を退学処分にしたり、学校に機動隊を導入し生徒を逮捕させたり、管理強化につとめた。
これに対して、生徒と一部教員のあいだで山内校長代行退陣を求める運動が広がり、麻布では授業どころではなくなった。やがて山内校長代行は退陣し、麻布は新しい体制のもとスタートした。学校関係者は「麻布学園紛争」と呼んでおり、麻布の校長をつとめた人が、「あの紛争は麻布元年であり、学校は新しく生まれ変わった」と振り返っている。
麻布学園紛争を通じて、麻布は校則、制服などがなくなり、自由な校風はできあがった。
「服装:制服はありません。以前制服であった詰め襟・黒ボタンの学生服を「標準服」としています。体育着は本校指定のものがあります。
校則:明文化された校則はありません。ただし、学校生活・社会生活を円滑に進めていくためのルールをもうけ、生徒一人ひとりが自覚して行動するよう日常的に指導しています」(同校ウェブサイト)