なぜ学力で競わされなきゃいけないのか?

 では、家庭環境だけでなく遺伝的要因にまで配慮して介入したほうがいいのだろうか。学業において不利になる遺伝的特性をもって生まれた子どもにはより良い教育的環境を用意して、手厚く勉強を教えるなどの特別対応をすればいいのだろうか。

 でもそれは、かけっこの遅い子に、あの手この手で足が速くなるように介入するようなものである。かけっこが好きじゃないのにそればっかりやらされるのは、余計なお世話というものだ。しかし勉強に関しては、そこまですることが正義であるかのような気がしてしまうから不思議である。

 なぜだか考えてみてほしい。

 かけっこが遅くても絵が下手でも社会に出てから困ることはあまりないが、勉強ができないと社会に出てから苦労するとみんなが思っているからだ。

 学校は、得られる人生が学力によって変わってしまうという思想を子どもたちに刷り込む巨大な装置として機能する。義務教育だけでも九年間、高校までを入れると一二年間、子どもたちは常にそういうメッセージを受け取る。一八歳時点での大学入試の結果によってほぼ決まる最終学歴で社会に出たときの地位や収入が違うのは当然だと思い込まされている。

 これが、「親ガチャ」という言葉に理不尽なあきらめのニュアンスをもたせているものの正体だと思われる。

 ここで、この社会が暗黙のうちに受け入れてしまっている前提こそを疑ってみようではないか。

 そもそもなんで私たちは競わなきゃいけないのか。しかもなぜ、学力で競わされなきゃいけないのか。読書が好きだったり勉強が得意だったりすることも、足が速かったり絵がうまかったりするのと同様に、才能の一種でしかないのに……。

 理不尽なのはそこではないか。

学歴は平等な社会の通行手形として登場した

 江戸時代の士農工商という身分制度が明治維新でなくなり、誰でも努力すれば立身出世できる“能力主義”のシステムが導入された。

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