全国津々浦々から優秀な才能を吸い上げるネットワークとして、学校制度が整備された。急ピッチで全国に小学校を設置し、そこで努力して頭角をあらわした子どもたちが上位学校に進学し、さらに頭角をあらわしたトップ・オブ・トップが現在の東大である帝国大学に集められるピラミッド型の学校制度である。自分たちの村から帝国大学への進学者が出ることは、村の誇りだった。だからいまだに日本人は、東大合格者数ランキングが大好きなのだ。
つまり「学歴」は、上位の社会階層に行くための通行手形として登場している。
なるべく上等な通行手形を手にしたい。それが教育競争の始まりだった。競争であるならば、フェアでなければいけない。だから全国どこの学校でも同じことを同じように教える画一的な学校制度設計に重きが置かれた。
少なくともスタートの時点では、全国民に同質の教育が与えられるようになった。そこから先で学業成績に差ができるとしたら本人の努力の差である、という無邪気な論理を社会として受け入れた。
一方で、教育は立身出世の手段と見なされたので、受益者負担の原則が採用された。教育費は原則自己負担とされたのだ。その名残で、いまでも日本は国際的に見て、教育に対する公的支出割合が低い国として有名だ。
これは、教育にお金がかかるという状況を招いた以上に、大きな弊害をもたらした。
学校という平等な条件下で努力して成果を出したのなら、しかも多額の教育費を投資したのであれば、努力や投資のぶんを社会に出てから報われて当然だという非常に功利的な論理を成立させてしまった。それは同時に、学校で成果を出せなかった者が社会の下層に沈んでいくのは自業自得だという論理も正当化する。
でも実は教育達成には本人の努力よりも親の社会経済的地位や遺伝を含めた大きな意味での「生まれ」が大きく影響していることが、いま次々とわかってきているのだ。身分制度の代わりにつくられた学校を舞台にした競争システムは、初めから出来レースだったことに、ようやく私たちは気づいたのである。
では、どうするか?
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