地下鉄で隣の席に親子が座った。子どもがあまりにも無邪気なので、母親に声をかけてカメラを向けた。女性と子どもの服装は、時代とともに格段とおしゃれになった(2019年5月)(撮影/伊藤孝司)
地下鉄で隣の席に親子が座った。子どもがあまりにも無邪気なので、母親に声をかけてカメラを向けた。女性と子どもの服装は、時代とともに格段とおしゃれになった(2019年5月)(撮影/伊藤孝司)

 フォトジャーナリストの伊藤孝司さんは、29年間43回にわたり北朝鮮を訪れ、その変化を見つめてきた。市井の人々の自然な表情を撮るまでには、長年の苦労があった。AERA 2021年8月16日-8月23日合併号から。

【写真特集】伊藤孝司が見つめた北朝鮮 29年の変化

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 地下鉄車内で、ひざの上に幼い娘を乗せてほほ笑む若い母親。フォトジャーナリストの伊藤孝司さん(69)が2019年5月に撮った会心の一枚だ。乗客の中には、スマートフォン(スマホ)の画面に見入る人もいる。

 日常生活のひとこまをとらえた場面だが、撮影場所は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌(ピョンヤン)だ。「市民の自然な表情が撮れるようになるまでには、長年の苦労があった」と振り返る。

 伊藤さんが北朝鮮を初めて訪れたのは、1992年のことだ。広島・長崎の被爆者取材をきっかけに、80年代からアジア各国で戦前・戦中の日本の侵略や植民地支配で被害を受けた人々に会い、カメラに収めてきた。日本企業が戦後、環境破壊を起こした各国の現場も訪ね歩いた。北朝鮮だけが、未踏の空白地として残っていた。

 91年8月、韓国で金学順(キムハクスン)さんが戦時中に日本軍の慰安婦をさせられたことを、ほぼ半世紀ぶりに公表した。これをきっかけに名乗り出が相次ぐと、伊藤さんは各国で取材。92年8月には初めて北朝鮮を訪れ、慰安婦だったという女性の話を聞いた。

■歴史的な課題も取材

 その後、北朝鮮が水害や飢饉に見舞われて訪問できなくなり、98年に単独での取材申請が初めて許可された。以来、2019年まで毎年、計43回訪れ、主に「日朝間に山積する解決すべき歴史的な課題」を取材してきた。広島・長崎で被爆した在朝被爆者や、戦時中に日本の鉱山や軍需工場で働かされた元徴用工らに会った。戦前から北朝鮮にとどまる残留日本人や、帰還事業で北朝鮮に渡った在日朝鮮人の日本人妻らにも会った。70年のよど号ハイジャック事件犯行グループも取材した。

 さらに日本政府からの支援物資の配布先や、北朝鮮の経済状況なども取材した。

 核・ミサイル開発に対する制裁の一環で、日本政府は北朝鮮への渡航自粛を要請している。しかし伊藤さんは「体制や文化が異なる国を訪れて現状を伝え、日本との間で残された未解決の問題を提起するのはジャーナリストの務めだ」と考え、ここ数年は年3回のペースで訪朝していた。20年にも3回訪れる予定だったが、新型コロナウイルスの感染を恐れた北朝鮮政府が国境を事実上封鎖し、訪問できなくなった。

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