分離派建築会 御茶ノ水の聖橋も 「建築は芸術だ」100年前の若者たちの建築運動を辿る (1/2) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

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分離派建築会 御茶ノ水の聖橋も 「建築は芸術だ」100年前の若者たちの建築運動を辿る

矢内裕子AERA
聖橋:山田守/1927年/東京都千代田区・文京区/復興橋梁として当時の内務省が設計、山田はデザインに関与した。支柱間8カ所の連続アーチのリズムは、装飾を排した新しい造形表現となっている(撮影/写真部・掛祥葉子)

聖橋:山田守/1927年/東京都千代田区・文京区/復興橋梁として当時の内務省が設計、山田はデザインに関与した。支柱間8カ所の連続アーチのリズムは、装飾を排した新しい造形表現となっている(撮影/写真部・掛祥葉子)

 大正時代、日本の建築界に彗星のごとく現れた、若き建築家の一群があった。1920年、東京帝国大学建築学科の卒業を控えた若者たちによる「分離派建築会」。今も残る彼らの貴重な作品を軸に、その活動を振り返る。AERA 2020年12月14日号から。

【写真特集】100年前の若者たちの建築運動

*  *  *
<我々は起つ。/過去建築圏より分離し、総(すべて)の建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために>

 情熱あふれるこの文章は、日本初の近代建築運動「分離派建築会」(以下、分離派)の宣言文だ。

 分離派の結成から100年目となる今年、東京・パナソニック汐留美術館では、「分離派建築会100年展 建築は芸術か?」が開催中(12月15日まで)だ。図面、模型、写真、映像、さらに関連する美術作品計160点によって、変革の時代を鮮やかに駆け抜けた彼らの軌跡を振り返るものとなっている。

 大正から昭和にかけて、新しい建築のあり方を模索した分離派の作品の中には、僅(わず)かだが残っているものがある。たとえば御茶ノ水のランドマークとなっている聖橋。1927年に完成した、美しいアーチを持つこの橋は関東大震災後、「復興橋梁」の一つとして、弱冠33歳の建築家・山田守によってデザインされた。隅田川にかかる永代橋も、同じく復興橋梁として山田がデザインしたものだ。

■芸術としての建築

 後に日本武道館、京都タワーなど数多くの名建築を設計する山田が若き日に参加していたのが、分離派だった。20年、同会は東京帝国大学(現・東京大学)建築学科の卒業を控えた6人の同期生、石本喜久治、瀧澤眞弓、堀口捨己、森田慶一、矢田茂、そして山田守によって結成された。

 日本の近代化の中で、建築も大きな変化をとげた。そこに登場したのが、「西洋の様式」をまねるのではなく、「独自の建築」を創作するべきだという分離派の若き建築家たちだ。

「過去の建築圏からの分離」を宣言した彼らは、学内の第2学生控所で習作展を、続いて白木屋デパートで第1回作品展を開く。

 当時、建築は実用性が大事だとされる風潮の中、「芸術としての建築」を希求した作品展の革新的な内容は、同世代の建築家や学生たちの注目を集めた。さらに大内秀一郎、蔵田周忠、山口文象らが加わることになり、分離派は28年の第7回展まで活動した。


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