「日本では放送しない」約束で海外メディアに… 被爆者たちはなぜ日本で原爆を語れないのか? (1/3) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

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「日本では放送しない」約束で海外メディアに… 被爆者たちはなぜ日本で原爆を語れないのか?

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山本大輔AERA
被爆当時8歳だった小倉桂子さん(81)。独学で英語を学び、広島を訪れる外国人たちに英語で被爆体験の証言を続けている。平和のためのヒロシマ通訳者グループを立ち上げ、代表を務めている(撮影/山本大輔)

被爆当時8歳だった小倉桂子さん(81)。独学で英語を学び、広島を訪れる外国人たちに英語で被爆体験の証言を続けている。平和のためのヒロシマ通訳者グループを立ち上げ、代表を務めている(撮影/山本大輔)

白血病で亡くなった佐々木禎子さん(当時12歳)の死をきっかけに建てられた原爆の子の像で、鐘を鳴らす外国人観光客。平和記念公園には常に多くの外国人の姿が見られる(撮影/山本大輔)

白血病で亡くなった佐々木禎子さん(当時12歳)の死をきっかけに建てられた原爆の子の像で、鐘を鳴らす外国人観光客。平和記念公園には常に多くの外国人の姿が見られる(撮影/山本大輔)

原爆の子の像の周りには、平和を願う国内外の人たちから折り鶴が捧げられており、「千羽鶴の塔」とも呼ばれている(撮影/山本大輔)

原爆の子の像の周りには、平和を願う国内外の人たちから折り鶴が捧げられており、「千羽鶴の塔」とも呼ばれている(撮影/山本大輔)

「親から子どもへ伝えるのが一番いいと言うけど、とんでもない。どうやって子どもを守るかを親は考える。被爆を知ったら子どもがどんなに悩むかを考えると、絶対に話せない」

【写真】「原爆の子の像」で、鐘を鳴らす外国人観光客

 被爆者である親の思いを語るのは、自身も8歳で被爆した広島市の小倉桂子さん(81)。話したくても話せない被爆者の葛藤は、想像以上の苦しみだった。

 夫との死別をきっかけに40歳を過ぎてから英語を独学で覚え、ドイツ出身のユダヤ系ジャーナリスト、故ロベルト・ユンク氏や米国の精神科医ロバート・リフトン氏ら、広島の原爆被害を世界に発信してきた著名な外国人の通訳をしてきた。「ヒロシマにケイコあり」と世界中で知られるようになり、その後の40年間に40カ国以上の海外メディアや写真家、小説家や学者らの広島での取材を支援。通訳しながら50人以上の被爆者との面会をコーディネートした。

 それでも自身の被爆体験は、なかなか語れなかった。7人いる兄妹同士で原爆を初めて語ったのは2年前。小学校の同級生とも同じ年だった。被爆者同士だと一層話ができない。被爆後70年間、みなが堅く口を閉ざしてきた。被爆者だと知られると、子どもへの被爆の影響を心配して結婚を避けられるなどの差別があった。だから被爆体験も明かせない。話すことで家族や親戚も被爆者だと分かってしまう恐れがあった。

「子どもの結婚を見届けて、その子どもが産んだ孫が正常かどうかを確かめる。それでやっと私は被爆者ですと打ち明ける気持ちになる。ただ、時が経っているので、被爆者だと証明してくれる証人を2人、探さないとならない。時が経てば経つほど被爆者であることを証明するのは難しいのは分かっているけど、子どものことを考えると、親としては絶対に話せないの」

 8歳で被爆した当時のことを鮮明に覚えている。爆心地から2.4キロ離れた自宅近くの道路にいた。ピカっと光って目の前が真っ白になり、息ができなくなった。ほとんど同時に爆風が来て、道路にたたきつけられ、気を失った。目を覚ましたら辺りは夜のような暗闇で静まりかえっていた。口の中は灰や砂だらけ。近所の家のわらぶき屋根が燃えているのが見えた。



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