昨年、「一冊の本」の2月号から12月号まで連載した「志賀直哉、映画に行く エジソンから小津安二郎まで見た男」が、この2月に朝日選書として世に出る。「一冊の本」へは選書の内容の3割ほどの発表であった。執筆に長い時間がかかり、紆余曲折があったが、ともかく出版までたどり着き、筆者として、今、ひと息ついている。

 日記のない年が多く、資料が見つからなかったことも少なくないが、『志賀直哉、映画に行く エジソンから小津安二郎まで見た男』では、引っ越し魔の志賀が、明治時代に浅草で見た映画、大正時代に新京極で見た映画、昭和初期に道頓堀や千日前で見た映画、そして戦後に熱海や渋谷などで見た映画について触れている。読者は、志賀という小説家が、生涯をとおして、さまざまな土地で数多くの名作を見ていたという事実にきっと驚くはずだ。

 原稿用紙で1000枚に近い本であっても、書けなかったことがいくつもある。たとえば、熱海で志賀が見た映画の全容である。資料が不足で十分に調べきれなかった。

 志賀は妻と末娘の貴美子の3人で、世田谷区新町から熱海市伊豆山大洞台へ、1949年1月下旬転居している。志賀はそこに1955年5月下旬まで住んでいる。熱海時代の志賀の日記は、1949年1月1日~1月29日、1951年1月1日~12月31日、1952年1月1日~5月28日、1953年4月1日~9月13日までのものが残されている。5年以上熱海に住んでいたが、日記の書かれた期間は2年間ほどである。

 熱海には戦前、銀座通りに熱海電気館、海岸通りに熱海宝塚劇場という映画館があった。志賀が住んでいた時の熱海には、3、4軒の映画館があった。1950年には国際劇場、熱海宝塚劇場、熱海劇場があり、翌年ロマンス座が加わる。1952年5月には熱海劇場が閉館し、1954年には大映劇場が開館している。志賀が終焉の地である渋谷に転居する1955年5月には、4軒の映画館が熱海にあったことになる。

 志賀が書き残した熱海時代の日記は、志賀が4つの映画館でさまざまな名作や娯楽作品を楽しんでいたことを教えてくれる。国際劇場では「浅草紅団」「イヴの総て」「シンデレラ姫」、熱海宝塚劇場では「レベッカ」「バグダッドの盗賊」「探偵物語」「快楽」を、熱海劇場では「パンドラ」「モツアルトの恋」「娘十八びっくり天国」「バンビ」、ロマンス座では「本日休診」「家路」(名犬ラッシーもの)「静かなる男」「ライムライト」というように。無論、これらは、志賀が熱海で見たほんのわずかの例である。

 ところが志賀は、日記に見た映画のタイトルを書かず、映画館名だけを書いている時が少なくない。二例をあげる。

 1951年10月25日
(略)貴美子も来る、国際劇場と熱海劇場を半分づつ位見て八時すぎのバスで帰る

 1953年7月13日
(略)ロマンス座に行く、入口にて貴美来てゐる事を聞いて一緒になる

 志賀は国際劇場や熱海劇場でなにを見たのか。それを探るには、当時の新聞広告が最適の資料であるが、1951年の熱海の映画館の広告を載せている新聞を探せなかった。

 志賀がロマンス座で見た映画は判明する。熱海市立図書館に1953年の「熱海新聞」が所蔵されている。それの、たとえば7月14日の紙面に、当時、熱海にあった3館、つまり、ロマンス座、国際劇場、熱海宝塚劇場の広告が掲載されていて、ロマンス座の広告には、12日から14日まで、「リオグランデの砦」「めぐり逢ひ」「アフリカの女王」とある。ほかの2館も同じく12日から14日までの上映作品の広告が載っている。熱海ではこの時期、わずか数日でプログラムを替えていたことになる。

「リオグランデの砦」はジョン・フォード監督、ジョン・ウエイン、モーリン・オハラ主演の騎兵隊とアパッチ族の物語、「アフリカの女王」はアフリカの河を舞台に、ハンフリー・ボガードとキャサリン・ヘップバーンが小さな蒸気船でドイツ軍と戦う冒険とロマンスの物語。「めぐり逢ひ」は未見である。松竹映画で、上映時間が40分ほどなので、長編作品と併映される添え物的な作品だったようだ。志賀が3本とも見たとはいえないが、「リオグランデの砦」と「アフリカの女王」のどちらかを見たことは間違いないだろう。

 このように、新聞広告からいろいろなことがわかる。1951年の熱海の映画館の広告を載せている新聞を探せなかったことは、かえすがえすも心残りである。