芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、「流れ」について。

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「横尾さんはよく流れのままに生きたらこうなったということをおっしゃいますが、その流れはどうやって見つけ、乗るものなのでしょうか」

 そうですね、「流れ」というのは見つけるものではなく、他動的に向こうからやってくる状況のようなもんじゃないかと思います。自分の意図したことではなく、そのような状況に置かれてしまう。その状況は自分で求めたものではなく、そうなっちゃった、そうさせられちゃった、これに対して有無と言って、反抗したり、抵抗したりしてもいいんだけれど、大阪的というかラテン的に、「しゃーないやんけ」と諦念した態度で、受け入れるしかない。抵抗するのもメンドークサイ、じゃ、ひとつこの状況の流れに乗るか、もしかしたら思わぬサプライズが用意されているかも知れない、他にこれという目的があるわけでもない。こう決心するのが、流れに乗ることではないのでしょうか。他動的な状況を受け入れることですから、最初から目的もなく結果を期待などしていません。

 それがかえっていいんじゃないかな。そして上手く流れに乗ることができたら、次はその流れを自分の方に引き寄せればいいんじゃないでしょうか。それとも、全身、この流れにまかせてしまうのも手じゃないでしょうか。僕の経験から言うと、しばらくはこの他動的な流れに身をまかせておいた方が、便利がいいように思います。そのうち、流れの賞味期限みたいなものがあって、思いもよらない、次の流れに遭遇するかも知れません。チャンス到来のサプライズが起こるはずです。その時はまたその時で、次の流れが待機しているのかも知れません。こうして流れに乗り始めると、次から次へと、いいタイミングに色々の変化に遭遇するような気がします。

 この流れを僕は運命に従うと解釈しています。従った方が自分のキャラ(性格)に合うようなことが次から次に起こってくるのです。まるで自分のために、世界が動いているんじゃないかと思える瞬間が連続して起こる。運命に上手く乗った瞬間です。その時運命の方が自分のために思うように操縦してくれます。何か特別の計画を立てたり、策略をねったりする必要はないのです。もしそれが必要なら、向こうが勝手にこちらの思う通りに動いてくれます。

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横尾忠則

横尾忠則

横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。

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