朝比奈秋さんは30代半ばまで、小説とは無縁の勤務医だった。
「論文を書いている時にふっと物語が浮かんで。それを書いてみたら止まらなくなりました」
浮かんだのは映画のような映像だったという。
「2、3年すると急患の診察中にも浮かぶようになり、仕事を続けられなくなりました。そこから書き続けているうちに、交友関係などもなくなっていき、プライベートな時間のほとんどが小説に侵食されていきました」
せっかく書いたのだからと短篇の新人賞に送るようになり、2021年、「塩の道」で林芙美子文学賞を受賞。昨年、同作と表題作を収録した単行本『私の盲端』を刊行した。
「塩の道」の映像は今でも冒頭から最後まですべて憶えているという。映像を言語化しているわけだが、作品では匂いや温度など、視覚以外の五感も生々しく描写されている。
「頭ではわかっていても身体は区別がつかないようで、実体験として感じるんです。人工肛門を付けた女性が主人公の『私の盲端』を書いていた時は、腹痛と下痢に悩まされました」
新作『植物少女』(朝日新聞出版 1760円・税込み)は、自分を出産した際に脳内出血で植物状態となった母を持つ少女が、母の病室を訪れて静かな時間を過ごしながら成長していく物語である。
「最初に浮かんだのは、植物状態の女性が授乳している場面や、その女性の膝の上で女の子が昼寝をしている場面でした」
少女は母の髪を染めたり、ピアスの穴をあけたりと勝手し放題だ。
「書く時に唯一気をつけているのは、登場人物を自分の思い通りに動かさないこと。なので自分は干渉せず、“こんなことするんだ”と、姪っ子に対するような気持ちで見守っていました」
もちろん物語の展開は本人も予想がつかない。
「最初はコミュニケーションがとれない虚しさや悲しさを受け止めていく話になると思っていました。でも途中で、高校生になった主人公が母は空っぽなんかじゃない、と気づく場面が出てきて。僕自身が植物状態の方を何もわかっていなかったと気づかされました」