子孫が語る刀剣と秘話 長宗我部家に伝わる歴史を刻む無銘の刀 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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子孫が語る刀剣と秘話 長宗我部家に伝わる歴史を刻む無銘の刀

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週刊朝日#歴史

長宗我部家17代当主は「うちは先祖である盛親が六条河原で打ち首になったこともあり、私は刀を見ると寒気がします。そのときの恐怖がDNAに染み付いているのですかね」と語る (※写真はイメージ)

長宗我部家17代当主は「うちは先祖である盛親が六条河原で打ち首になったこともあり、私は刀を見ると寒気がします。そのときの恐怖がDNAに染み付いているのですかね」と語る (※写真はイメージ)

 長宗我部盛親は土佐を統一した元親の四男、あるいは戸次(へつぎ)川の戦いで死んだ信親の弟である。

 司馬遼太郎は盛親を主人公にした『戦雲の夢』で、「歴史のうねりにのみ込まれた不運な武将」「自分の生涯の意味を考え、悩み苦しむ青年」として描いた。

『戦雲の夢』は初期の司馬作品ゆえか、ダイナミックな歴史ドラマ的興趣よりも、「哲学する青年武将の不運な人生を考察する小説」といった趣がある。

 司馬は大坂夏の陣へ向かう直前の盛親に、次のように言わせている。

「人間の一生が仕合せであったかどうかは、息をひきとるとき、自分の一生が納得できるかどうかできまることだ」

 昨年のNHK大河ドラマ「真田丸」では、「大坂五人衆」のひとりとして登場。本編終了後の「真田丸紀行」では、「土佐は大坂五人衆のひとり、盛親のふるさと。土佐の大名、元親の四男として生まれた。岡豊(おこう)山にあった岡豊城、盛親は戦上手の父のもと、この城で育ったという。(中略)しかし関ケ原の戦いに敗れ、土佐一国を失った。(中略)盛親にとって大坂の陣は長宗我部家の再興をかけた戦いだった」と紹介された。

 盛親は慶長4(1599)年に家督を相続する。四男の盛親は、本来なら家督を継ぐ身ではなかったが、長男・信親は戦死、次男・香川親和と三男・津野親忠は他家を継いでいるという理由から世子になった。

 関ケ原の戦いでは意に反して西軍に与(くみ)したために、土佐一国は没収、盛親は牢人大名となり、京の相国寺の近くで手習いの師匠として世を過ごした。爾来14年、東西手切れとなったとき、長宗我部家旧臣と共に、大坂城に入った。大坂夏の陣では藤堂高虎を相手に善戦したが、城は落城。その後、京都八幡付近で潜伏していたところを捕らえられ、六条河原で斬首された。

 しかし、長宗我部家は一時途絶えたが、刀をはじめとした武具や文書が京都の蓮光寺に残されている。

 盛親所用と伝わる刀について、長宗我部家17代当主の長宗我部友親さんがこう話す。

「太刀だったものに磨上(すりあ)げを繰り返したものだと思います。名物ではありませんが、いいものを大事に長く使っていたのでしょうね」

 長宗我部家には「勝負は鞘(さや)の中にあり」という家訓がある。鞘から刀を抜く前に勝負をつけ、無益な殺生は避けよという意味である。

 友親さんは刀について、美しいというより、非常に恐ろしい存在だと話す。

「うちは先祖である盛親が六条河原で打ち首になったこともあり、私は刀を見ると寒気がします。そのときの恐怖がDNAに染み付いているのですかね」

 捕らえられた盛親は「なぜ潔く腹を切らなかったのか」と責められたという。それは自身の命が惜しいのではなく、いつかまた領民のため、家臣のため、大名になることを夢見ていたからだ。代々土佐の地を長く支配してきた地生えの大名だからこその思いである。

 派手な生活もせず、名物の刀や茶器を集めもせず、領民と家臣のためを思い、自分は家に伝わる刀を何度も磨上げ使っていた長宗我部盛親をはじめとする武将たち。その無念と悲しい歴史をこの刀が伝えている。(ライター・植草信和、本誌・鮎川哲也)

週刊朝日 2017年3月17日号


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