落語家・春風亭一之輔氏の週刊朝日コラム「ああ、それ私よく知ってます。」。落語界の「師匠」という敬称の難しさについて語る。
* * *
東京の落語家は、真打に昇進すると「師匠」という敬称をつけて呼ばれるようになる。だから一応、私も一之輔「師匠」と呼ばれている。
最初はちょっと居心地が悪かったが、「これは東京の噺家のルールで、呼ぶ方は別に敬ったり尊んでなくてもそう呼ぶのだ」と思ったら気が楽になった。
極端な話、「一之輔師匠。悪いんだけどそこのジャケット取ってくんねえか?」なんてことがあるのだ。なんだかなぁ。
一方、上方落語界は真打制度が存在しない。その点ではちょっとめんどくさいらしい。言葉は悪いが、売れたもん勝ちみたいなところがあるからか、外部から見れば明らかに「師匠」と呼ぶべき売れっ子も、仲間内からは「まだそれには早い!」と思われてたりする、らしい。
落語界の外の人で「師匠」と呼んでくれる人も多いが、私の個人的な意見としては一之輔「さん」で全く問題ない。「師匠」となるとなんか響きが堅苦しくなるし、付き合いの幅が狭くなるような気がしていけない。
「一之輔師匠にはここで満面の笑みで川にダイブして頂けますか? その折、師匠には全裸でお願いしたいのですが? 師匠、何卒ご了承くださいませ!」
……なんて仕事の打ち合わせは「師匠」だとしづらい。そういう仕事がしたいわけではないが、一つの例として。
後輩は、入門した時点で既に真打の先輩を「師匠」と呼び、真打未満の先輩は「あにさん」か「ねえさん」と呼ぶ。この「あにさん」や「ねえさん」が真打に昇進した時、「師匠」に切り替わるのだ。
「勘弁してよ。『あにさん』でいいよ」
「何をおっしゃいますやら!」
「ホント勘弁してくれ!」
「周りの目もありますから……。じゃあ、上の人がいる時は『師匠』で、若手しかいない時は『あにさん』にしますよ」
「……そうしてくれる? 面倒かけてごめんね」
入門した時、真打未満だった先輩は真打に昇進してからも「あにさん」と呼んでかまわない。だが、後輩の立場からすると、その先輩が自分をちゃんと認識してくれていたかが問題だ。
入門して4カ月目に落語協会で10人の先輩が真打に昇進した。この方々は基本的に「あにさん」でいいのだが、なんか呼べない自分がいる。いちいち、
「私が入ったとき、あなたは二つ目だったので『あにさん』と呼びますよ」
とは断れないし、かといって、「なんでこいつは俺のこと『師匠』と呼ばねえんだ!」
と憤慨されるのはつらい。
こちらとしては敬意に親しみをプラスして「あにさん」と呼びたいのだ。今まで「師匠」と呼んでいた先輩を「あにさん」と呼ぶには、どう切り替えたらよいかなぁ……。
一度ベロベロに酔っぱらって自分の師匠を「あにさんさぁー!」と呼んでしまったことがある。親しみ、込めすぎた。
「……俺は君の『師匠』だよ」
と、もっともなお言葉を頂戴した。よその師匠なら破門だな。
「師匠」と「あにさん」の間には、深くて長い河がある。
※週刊朝日 2015年12月25日号