落語家・春風亭一之輔氏の週刊朝日コラム「ああ、それ私よく知ってます。」。落語界の「師匠」という敬称の難しさについて語る。

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 東京の落語家は、真打に昇進すると「師匠」という敬称をつけて呼ばれるようになる。だから一応、私も一之輔「師匠」と呼ばれている。

 最初はちょっと居心地が悪かったが、「これは東京の噺家のルールで、呼ぶ方は別に敬ったり尊んでなくてもそう呼ぶのだ」と思ったら気が楽になった。

 極端な話、「一之輔師匠。悪いんだけどそこのジャケット取ってくんねえか?」なんてことがあるのだ。なんだかなぁ。

 一方、上方落語界は真打制度が存在しない。その点ではちょっとめんどくさいらしい。言葉は悪いが、売れたもん勝ちみたいなところがあるからか、外部から見れば明らかに「師匠」と呼ぶべき売れっ子も、仲間内からは「まだそれには早い!」と思われてたりする、らしい。

 落語界の外の人で「師匠」と呼んでくれる人も多いが、私の個人的な意見としては一之輔「さん」で全く問題ない。「師匠」となるとなんか響きが堅苦しくなるし、付き合いの幅が狭くなるような気がしていけない。

「一之輔師匠にはここで満面の笑みで川にダイブして頂けますか? その折、師匠には全裸でお願いしたいのですが? 師匠、何卒ご了承くださいませ!」

 ……なんて仕事の打ち合わせは「師匠」だとしづらい。そういう仕事がしたいわけではないが、一つの例として。

 後輩は、入門した時点で既に真打の先輩を「師匠」と呼び、真打未満の先輩は「あにさん」か「ねえさん」と呼ぶ。この「あにさん」や「ねえさん」が真打に昇進した時、「師匠」に切り替わるのだ。

 
 真打になった時、昨日まで「あにさん!」と呼んでいた後輩が、その日から「師匠!」と呼ぶようになった。「師匠」はどうにもくすぐったい。

「勘弁してよ。『あにさん』でいいよ」

「何をおっしゃいますやら!」

「ホント勘弁してくれ!」

「周りの目もありますから……。じゃあ、上の人がいる時は『師匠』で、若手しかいない時は『あにさん』にしますよ」

「……そうしてくれる? 面倒かけてごめんね」

 入門した時、真打未満だった先輩は真打に昇進してからも「あにさん」と呼んでかまわない。だが、後輩の立場からすると、その先輩が自分をちゃんと認識してくれていたかが問題だ。

 入門して4カ月目に落語協会で10人の先輩が真打に昇進した。この方々は基本的に「あにさん」でいいのだが、なんか呼べない自分がいる。いちいち、

「私が入ったとき、あなたは二つ目だったので『あにさん』と呼びますよ」

 とは断れないし、かといって、「なんでこいつは俺のこと『師匠』と呼ばねえんだ!」

 と憤慨されるのはつらい。

 こちらとしては敬意に親しみをプラスして「あにさん」と呼びたいのだ。今まで「師匠」と呼んでいた先輩を「あにさん」と呼ぶには、どう切り替えたらよいかなぁ……。

 一度ベロベロに酔っぱらって自分の師匠を「あにさんさぁー!」と呼んでしまったことがある。親しみ、込めすぎた。

「……俺は君の『師匠』だよ」

 と、もっともなお言葉を頂戴した。よその師匠なら破門だな。

「師匠」と「あにさん」の間には、深くて長い河がある。

週刊朝日 2015年12月25日号

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春風亭一之輔

春風亭一之輔

春風亭一之輔(しゅんぷうてい・いちのすけ)/落語家。1978年、千葉県生まれ。得意ネタは初天神、粗忽の釘、笠碁、欠伸指南など。趣味は程をわきまえた飲酒、映画・芝居鑑賞、徒歩による散策、喫茶店めぐり、洗濯。この連載をまとめたエッセー集『いちのすけのまくら』『まくらが来りて笛を吹く』『まくらの森の満開の下』(朝日新聞出版)が絶賛発売中。ぜひ!

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