日本軍の戦車(※イメージ写真)
日本軍の戦車(※イメージ写真)

 67年前、東京裁判の末に処刑された7人のA級戦犯。家族にすら遺骨の引き渡しを拒んだ理由は何だったのか。そして今も国内外で論議を呼ぶ「A級戦犯」処刑の“謎”とは──。ジャーナリストの徳本栄一郎氏が機密解除されたGHQ(連合国軍総司令部)文書で真相に迫る。

 答えはGHQ参謀二部(G2)の文書にあった。講和条約調印後、A級戦犯の遺骨返還の要請が来た。その時のG2会議録を見てみる。

「(遺骨返還は)以下の3点から極めて不適当である。a. 事実上、われわれの戦犯に対する長期的方針を逆転させてしまう。b. 急進的ナショナリズムの復活に格好の結集点と根拠を与える。c. 日本人の多くは東條(英機)や他の戦犯を英雄でなく背信者と見ており、われわれとの間に距離を生んでしまう。従ってこの要請には、遺骨は返還できないよう破棄されたと回答すべきである」(1951年11月29日、G2内部メモ)

 ここで重要なのは「戦犯に対する長期的方針」「背信者」という言葉だ。そもそも東京裁判はこれまで多くの批判に晒された。ポツダム宣言にない「平和に対する罪」で裁いたこと、不明確な被告人選定の基準は一方的な“勝者の裁き”と言われた。なぜGHQはそこまで無理をしたのか。

 敗戦直後、米国民の天皇への見方は厳しかった。真珠湾攻撃の記憶も生々しく天皇処刑の声すらあった程だ。だがGHQは天皇を裁かず円滑な占領に利用したかった。しかし開戦詔書が天皇の名で出た以上、理論武装が必要だ。そこで考えられたのが全責任を東條元首相らに押しつける戦略だった。それはマッカーサーの軍事秘書ボナー・フェラーズが米内光政元首相に語った言葉で分かる。敗戦後、東京裁判対策に関わった元海軍大佐の豊田隈雄が紹介した。

「対策としては天皇が何等の罪のないことを日本人側から立証して呉れることが最も好都合である。其の為には近々開始される裁判が最善の機会と思ふ。殊に其の裁判に於いて東條に全責任を負担せしめる様にすることだ。即ち東條に次のことを言はせて貰い度い。『開戦前の御前会議に於て仮令陛下が対米戦争に反対せられても自分は強引に戦争迄持って行く腹を既に決めて居た』と」(『戦争裁判余録』)

 米内はこう応じた。

「全く同感です。東條(元首相)と嶋田(元海相)に全責任をとらすことが陛下を無罪にする為の最善の方法と思ひます」(同)

 これを裏付ける文書を米バージニア州のマッカーサー記念館が保管している。フェラーズの部下がマッカーサーに提出した覚書で、開戦詔書が作成された際、「(天皇への)詐欺、威嚇または強迫が行われていたと証明する事実を全て収集する」と勧告した。要は、天皇は東條に威嚇され詔書に署名した。自らの意志ではなかったと証明せよというアドバイスだった。

 その後、GHQの民間情報教育局(CIE)は軍国主義者の糾弾キャンペーンを始めた。国民は東條らに騙され無謀な戦争に導かれたと宣伝された。A級戦犯すなわち背信者のイメージが確立する。強引な裁判の裏には日米共通の思惑があり、遺骨返還はこの戦略を揺るがす恐れがあったのだった。

 6年8カ月続いた占領は、ある意味で大いなる矛盾の時代であった。日本の民主化を唱えつつ、GHQは絶対権力者として君臨した。国際正義の名で開いた東京裁判は“勝者の裁き”と呼ばれた。そしてカバーストーリー(真実を隠すための物語)が広がっていった。

 闇に消えたA級戦犯の遺骨、それはあの矛盾に満ちた時代の象徴だと言える。

(文中敬称略)

週刊朝日  2015年5月22日号より抜粋