犠牲になった従業員のひつぎに花束を供える日揮の川名浩一社長(右)ら=1月26日午後、成田空港 (c)朝日新聞社 @@写禁
犠牲になった従業員のひつぎに花束を供える日揮の川名浩一社長(右)ら=1月26日午後、成田空港 (c)朝日新聞社 @@写禁

 日本人10人が犠牲となったアルジェリアのテロ事件。大手メディアが犠牲者の名前を報じたが、ジャーナリストの辛坊治郎氏が「犠牲者の実名報道」がなぜ必要か、本質に迫る。

*  *  *

 アルジェリアのテロ事件の犠牲者の人生、残された家族の慟哭に接し、それを伝える新聞紙面を涙で濡らした人も少なくないだろう。しかしその一方で、メディア各社が政府に犠牲者の氏名公開を求める要望書を提出したことについて、「被害者のプライバシーは守られるべきである」という批判が一部ネット上で提示され、大手メディアの中で最初に犠牲者の名前を報じた朝日新聞などに少なからぬ批判の声が寄せられた。

 私は、一連の論争を聞いていて、メディアもネットの住民たちも、本質的な視点を欠いているのではないかと強く思う。

 犯罪被害者は社会的に保護されるべき存在だし、犠牲者本人、遺族のプライバシーは最大限守られなくてはならない。しかし、例えば、殺人事件の犠牲になったのが暴力団員か、警察官か、あるいは政治的スキャンダルにかかわりのある人物か等で、事件の様相は全く変わってくる。

 これを、「被害者のプライバシー」を盾に、警察が発表を「被害者A」とした場合に、市民の知る権利は守られるか? かつて多くの共産主義国でそうであったように、被害者名どころか、犯罪そのものが隠されたり、あるいは一定の政治的意図を持って犠牲者数が水増しされたりした場合でも、被害者が匿名のままでは、市民は真実にたどり着くことは不可能だ。

 なぜ、被害者のアイデンティティーが明らかにされなくてはならないか。市民は、「伝えられること」自体が辛い情報でも、社会の意思決定権者として、「真実」を入手できなくてはいけないということなのだ。だからこそ「伝える側」は、今ペンの先にある事実が本当に「報道価値」があることなのか、厳しく自省しなくてはいけないのだと思う。

(週刊朝日2013年2月15日号「甘辛ジャーナル」からの抜粋)

週刊朝日 2013年2月15日号